熊本県天草市にある丸尾焼という窯元の窯元日記です。陶芸に興味のある方はチェックすると面白いかも・
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2016年12月15日
明治以前の職業技術習得の最も一般的な方法は徒弟制度だ。弟子として入門して3年間の丁稚奉公。そのあとにお礼奉公が一年。都合4年間で職人としての一通りの技術を身につける。その後は一般的には修行した工房に勤めて、職人としてさらに腕を磨く。およそ10年間で一人前となり、その後は独立する人も居たし、そのまま職人として働く人も居たようだ。私の工房は基本的にこの考え方を継承して工房の運営を行ってきた。現在、丸尾焼で技術を身に付け独立し、生計を立てている人が多い理由は、徒弟制度に近い方法で指導してきたからで、この方法が職人を作るための一番有効な手段だと私は考えている。
ただし、この方法にも限界がある。旧来(明治時代以前)の徒弟制度では、かなりの人が工房に残っていたのだが、今の時代・・・ほぼ全ての人が独立への道を歩くようになった。例えば10名の弟子が入ったとする。そのうちの半分5名が工房に残ったとすれば、工房の運営に大きな支障は来たさない。各々の習熟度が上がり、工房としての生産量を維持することが出来るからだ。工房は新弟子を取れば取るほど工房の運営は難しくなる。3年、4年の修業期間が過ぎ、ある程度の生産が出来るようになったときに、以前であれば半分程度は工房に残ったが、現在ではほぼ全ての人が独立を目指すからだ。工房の健全運営を考えた時、この事はとても大きな問題となる。1から手ほどきを行い・・・ある程度仕事の計算ができるようになってた時に、殆どの人が独立していけば、工房は独立のための機関に過ぎなくなる。
私の工房が、現在弟子を取ることを躊躇する一番の理由は、殆どの新人が独立希望者で、工房での修業を独立するための技術習得と考えているからだ。この考え方を否定するつもりはないが、工房としてみれば単体での弟子養成を躊躇する原因となる。技術を教える期間の3年間は、工房としては出費のほうが大きく、入門より3年、4年で工房を離れられると、ようやく仕事が出来るようになった矢先に・・・ある程度の技術を持った人がが居なくなるからだ。陶芸の場合、右も左もわからない状態の人が、ある程度の何かを作るようになるまでは最低でも1年。長い人の場合は3年くらいの月日がかかる。この期間は窯元にとっても手出しが多く、苦労ばかりが目につく期間でもある。
徒弟制度の肝はギブアンドテイクだと思う。技術を教える代わりに一般的な意味での労力を提供してもらう。ギブの時期が3年、テイクの時間が1年。それから先がイーブンの時間ということだろう。今の時代、どこでも同じだろうが、工房自体に余力がなくなっており、ギブのみ・・・テイクの関係を作れないから、弟子を取るということそのものが無くなってきつつある。ただし、産地形成を行うためには、どうしても徒弟制度に近いシステムを作る必要がある。産地形成の本質は地域における職業の循環システムを如何にして作るかが・・・一番重要な課題だからだ。明治以前の徒弟制度と、明治以降の職業教育制度の中間点に答えはあると思うが、今の人達にはこの点が理解しがたいことのように感じる。徒弟制度を現代にどう結びつけるのか。。。この点について何日か掛けて考えていきたいと思っている。
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| 陶芸
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2016年12月14日
師走とはよく言ったものだ。12月の半ば近くになると色々要件が増えてきて、何から手を付けようかと慌ただしく思う。今の私の仕事は全体を考えることと、部分を考えることが交差していて、全体を考えることと、部分を考えることは、脳みその別のところを使う行為だと思っている。全体のことを考えるときには、漠然とした脳の部分を使い、部分的なことを考えるときは、明確な脳を使うように思う。全体を考えるときは頭の上が開けている必要があり、部分を考えるときは一点に集中する、脳の使い方が強いと思う。私の感覚のことなので、皆が同じなのかは分からないが、私が思考するときはそういう使い方をしているように思う。
交互に考えを巡らすことは効率的だと思う。全体を考えることは私にとっては、山の上に立ち全体を眺める行為に近い。眺めを漠然と見ながら、俯瞰視している感覚といえば良いのだろうか。何処が調和が取れていて、何処が不協和なのか。何処に力を注ぐと・・・より良いものになるのか。あまり直接的に見てしまうと全体が見えなくなる。遠望に近い感覚で全体を考えたほうが良い形になるように思う。。。部分を考えることは、双眼鏡でのぞく感覚に近い。焦点を定めながら、一点に集中するような感覚。この2つが交差しながら物事を考えるのが、一番捗りやすいように思える。私にとって考えるということは、風景を眺めることに近いのかもしれない。
どっちが得意かと言われると、どっちも同じくらい楽しい作業だ。全体を考える作業は調和がとても重要だと思う。何処に進むべきなのかを考えながら、ハーモニーが出来上がることを、楽しむと言えばいいだろうか。向かうべきところは・・・はっきり判っていることが多いので、悪いアイディアを除き、まっすぐ進むべきところを定めながら考えていけば、必ず良い方向が見えてくる。我欲が入ったり、自己的な考えが強くなると、絶対にうまい方向へ進まない。虚心坦懐に全体を見れば自ずから答えが見えてくる。部分を考える仕事はあまり虚心坦懐に進めていけば、単調になる場合が多い。基本ラインは同じでも、濃淡をつけなければ良くならない場合が多い。濃淡は探していなければ見えてこない、さらに言えば・・・興味津々である必要がある。しかし、基本は全体と同じなので、ディテールを見つけるときに双眼鏡や顕微鏡を持っておけば、案外うまく計画を建てることが出来る。
今は来年に向けた様々を考えている。考えることだけではうまく行くわけはないという人も居るが、考えもしないでうまく行くわけがない。考えるということは・・・想定することでもあるからだ。もちろん、思い通りにはならないかもしれないが、よく練り上げられた企画であれば、多くの人が支持してくれることが多い。人が支持してくれることは良い企画ともいえるわけで、何事によらず人に触れる大義名分があったほうが、物事がうまく運ぶように思う。考えるということの妙味は、このあたりにあるのではないか。もちろん現実世界に生きているのだから、紙の上に書いたように物事が進むわけではないか、紙の上に書いたように進むわけではないからこそ、考えるプロセスが重要になるように思う。
| 生きること
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2016年12月10日
年末恒例でハードディスクを購入した。4Gバイトのハードディスクが1万円ちょっとで販売されており驚いた。毎年のことだが、一年でハードディスクの値段が半分に下落する価格破壊のスピードに驚いている。4Gバイトのハードディスクには、400時間程度の録画を行うことが出来る。1万円のハードディスクに見るだけで、約17日くらいの情報が記録できるということだ。私は3チャンネル同時録画できるシステムを使っている。システムというほど大げさなものではないが、テレビが1チャンネル。ビデオレコーダーが2チャンネル。合計3ちゃんねるの同時録画が可能だ。通常は録画して消去。再度見たいと思ったものだけを残し、後は消去しながら繰り返して使っている。
アナログの時から基本的にはこの方法でテレビを見てきた。10年間くらい同じやりかたで録画して、年の終わりに・・・新しいハードディスクを購入することを繰り返している。面白いのは残そうと思う番組がほとんどNHKということ。民放の番組は残そうと思うような番組がNHKと比べると圧倒的に少ない。今使っているハードディスクは2Gバイト。この容量であればおよそ200時間の録画ができる。一年間の番組で保尊しようと思う番組を200時間に収めるのは意外と難しい。常に録画することにしている番組がいくつかあり、それだけでも100時間以上必要だ。日曜美術館が50時間・・・プロフェッショナルが20時間。ガイアの夜明けが30時間。この3つの番組は残すことが多い。NHKスペシャルや古典芸能系で気に入ったものが、それぞれ20時間程度残すことになる。
もっともハードディスクに残すからといって、再度見ることは殆ど無い。テレビに再接続することが面倒なために、わざわざ時間を掛けて見たいと思わないからだ。いずれもっと大きなハードディスクが出てきて、今まで撮りためた番組を一つにまとめられるようになれば、便利だと思うが、そうなるには、あと数年かかるだろう。もっとも家に番組を録り貯めることが今後も続くのかについて、私は少し疑問に思っている。最近の私はオンデマンドで番組を見ることが増えているからだ。テレビのライブ配信がこれから先・・・どれくらいの期間続いていくのだろうか。私はかなり疑問に思っている。高速通信が今より一般的になれば、いつでもどこでもオンデマンドで番組を見るという形態が、普通になるのではないか。そんな時代がすぐそこまで来ているように思うからだ。
来年には8Gバイトのハードディスクが、1万円程度で購入できるようになるのだろう。その次の年は16Gバイト。その次の年は32Gバイト。ツールの進化は倍々で進んでいくから。。。そんな時代になれば、そもそも録画すること行為自体が、無駄なことになってしまうに違いない。世界の動画情報を一人で見るなど出来ないのだから・・・そのうち、私の好む番組だけを録画するような、人工知能が出来るのかもしれない。私が今行っている録画番組の取捨選択をチェックさえすれば、私の録画番組を残す残さないの判断はすぐに理解できるようになるはずだ。そう遠くない将来、嗜好をサポートをする人工知能が出てくるはずだ。私より私のことを知っている人工知能。それは未来でいう私なのかもしれないと思ったりしている。
| 電脳嗜好
| 14:39
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2016年12月08日
世界情勢を眺め考察すると、今年が尋常な年ではなかったことがはっきりする。アメリカの大統領選挙。中国の経済衰退。韓国の大統領の問題。北朝鮮の核。ロシアの強硬姿勢。イギリスのユーロ離脱。日本では天皇の退位の問題。のちの世代が今年を考察すると、世界史の転換点だったということになるような年・・・という評価になるに違いない。熊本県も今年は大震災が起こり、熊本城の被害などを見ると大きな災いが発生した年。阿蘇の噴火も基本的には収まっていないということで、その点でもとても気になる年回りだと思う。
世界情勢がこれほど動くということは、やはり何らかの時代のエネルギー。共通項があるのではないか。結果として、これから先どういう変化が起こるのだろうか? 漠然とではあるがこれからの変化について考えている。私は今年の変革を受け・・・来年は本音の時代に突入するのではないかと考えている。保守回帰だと話す人も多いが、保守とは何かという、そもそもなりが今ひとつ明確でないので、世界が保守回帰という方向に向かうとは私は考えない。世界は保守回帰というより、ナショナリズムへ回帰に向かうのではないか。イギリスにしろ、アメリカにしろ、ロシアにしろ、その方向へ進んでいるように思えてならない。
熊本も天草もどちらかと言えば、地域回帰するのではないか。理由は世界がその方向へ進んでいることと、地域としての再生という方向へ、向かうのではないかと考えるからだ。モノを作る人間にとって世界や地域が、どの方向へ進むかを見定めることは、とても重要な視点だろう。というよりも・・・むしろデザインを行う上で一番重要なことは、今から世界や地域が、何処へ向かうのかを予測することだとさえ思う。保守ではなく地域へ回帰することは、この国や土地にあるものを、見直す時代がやってくるということだろう。しっかりと見渡して、そこに存在する何かを探せば良いのだから、簡単なことではないかと・・・思いを巡らしているところだ。
今年は激動の一年だったと、あとからいわれる年であることは間違いない。来年も同じように様々な動きが結果として現れてくるだろう。今のままが良い人達にとって・・・過ごしにくい時代かも知れないが、世の中の固定化が進んで息苦しいと感じている人達にとっては、展開が開けて見えてくる年になるだろう。ありとあらゆることが転換点に差し掛かっているのではないか。人の想いの表現形式である選挙の結果からもそう見えるし、世界情勢を見てもそう思える。大変な世であるに違いないが、案外面白い時代に差し掛かっているのかもしれない。新しい秩序がはっきり見えてくるまでには今暫く掛かるのかもしれないが、しっかり考えていけば・・・良い方向へ向かえるようにも感じている。だから人の世は面白いとも思う・・・
| 国を考える
| 17:54
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2016年12月05日
この3日間・・・ほとんど何も考えない日々が続いた。何も考えないといっても、生きている以上・・・何かは思っているわけで、考えていないとは、文章として残さない3日間だという含みもある。生きている以上・・・本当は無限に考えているのだろう。人は本質的には常に何かを考えていると思う。考えたことを残していない・・・つまりは、文章にしていないというのが、最初に考えない日々が続いたと書いた理由。。。。考えていないかと問われると常に何がしか考えているわけで、正確に書けば、著在脳ではなく、潜在脳で考えていたと書くほうが、私の実感に近い。日記を毎日書いていると、ついその日のことに追われてしまい、継続的なことを綴ることが疎かになってくる。今日という単位で、何を考えたかが中心となってしまい、あるテーマに的を絞って考えることが少なくなってしまう。
今私は少々大きなテーマについて考えを巡らしている。天草の陶芸をどの方向に、導いていくべきなのかということが・・・今の一番大きなテーマ。それに付随して様々なサブテーマがあり、更にそれに付随して少項目のテーマがある。そして、各々にあ答えを出さなければならないと思い始めている。人は一年先のことについても明確な景色が見え辛いのに、20年先30年先100年先のことを考える作業を行っているのだから、漠然としたものと明確なものとが入り混じっており、頭が混乱することも多い。基本的には戦略と戦術と作戦ということなのだろうが、そういう幹のようなことから枝葉に至るまで考えるわけだから、一日の思いつきで日記を書くような訳にはいかない。
もっとも大きな話は、日常の小さなことの集積だから、小さなことをしっかりと考えておかなければ、大きなことには繋がらないと思う。小さなことの延長線上に少し大きなことがあり、その延長線上に一番大きなことがあるから、小さなことに破綻が存在すると、少し先の大きなことにおいては、かなり大きな間違いが起こり、更に先の大きなことの時点では、取り返しのつかない問題が生じるだろう。小さなことが重要な意味は、ここにあると思う。では先の先・・・戦略の先には何を求めるべきなのだろうか。言葉のみで言えば『人が自らの将来に不安を感じずに、生きていける、継続可能な仕組みを作る』ことではないか。もちろん、天草という枠の中で考えることだが、今の天草に一番欠けているのは、その仕組を現代という事象に対して、プラスのメッセージを含みながら作り上げることだろう。
もちろん、私が思うように未来が開けるわけではない。そんなことは当たり前・・・百も承知だ。ただし方向性が間違っていたら、今がどんなに良くてもすぐに頓挫してしまうだろう。頓挫しないためには方向が間違っていないこと。10年先20年先に目指すべき方向が間違っていれば、50年後100年後にはとんでもない方向へ向かっているはずだ。そんな先のことを私が考える必要はないとも思うが、あとから来る人達に無駄な労力を使わせたくないので、できるだけ今の段階で進むべき道を示しておきたいと思う。私より優秀な人達が違う考えで進んでも構わないが、その人達のためにもやはり進むべき道を示しておいたほうが良いと思う。おそらくこんな面倒なことを考えるような人間は、そうそう生まれないと思うから。未来の人に残しておきたい。この事について時間を掛け考える必要があると思い始めている。
| 陶芸
| 17:36
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