丸尾焼窯元日記

熊本県天草市にある丸尾焼という窯元の窯元日記です。陶芸に興味のある方はチェックすると面白いかも・

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200年の風雪。つまりは信用。。。

 バタバタとした日が少し一段落。ほっと一息つくことが出来た。週末から昨日まで、身辺がとんでもないことになっており、忙殺・・・されていた。おまけに台風までやってきた。今回の台風はなんとなく嫌な気配を感じたので、それなりに準備をしたのだが、天草方面の風は思ったほどではなく、ちょっと損をした気分になってしまった。災害は忘れた頃にやってくると言われるが、油断すると大きな災難をもたらすので、損・・・したという気持ちを必死で押し殺している。ブラジルから工房に留学していたパトリシアが、週末、7年ぶりに工房を訪れていた。彼女はブラジルでカーデザイナーと結婚し、現在、上海に住んでいるそうだ。結婚生活を満喫しているようで、とても幸せそうな印象だった。陶芸は今のところやっていないようで、その点では少し寂しかったが、本人が幸せであれば・・・それ以上求めるものはない。今日、福岡空港から上海に向けて発つらしいが、2時間程度で上海に到着するとのこと。遠いような、近いような・・・思いが交錯した。

 陶芸展のゲストはとても刺激的な人が集まりつつある。正式な発表をまだ行っていないので、ここに書く訳にはいかないが、単体で考えても、素晴らしい人達が集まることになりそうだ。難航したようにも思えるが、今年のテーマである『身一つ』という言葉に、多くのゲストが賛同してくれて、知的なディスカッションをいろいろ展開できると思っている。陶芸という仕事に関して、私は地方における最も知的な仕事だと考えている。文化的という意味で考えても、地方の背骨となる職業だろう。しかもご近所の水の平焼は、当代で8代目。昨年創業250周年を迎えた仕事場だ。恐らく天草で最も古い事業所ではないだろうか。私のところも今年で創業178年となるが・・・天草でも指折りに古い仕事場だと思う。明治100年の年に商工会議所より表彰を受けているが、その文言の中に『貴事業所は100年の風雪に耐え・・・』と書いてある。このことを、私たちはもっと誇りにして良いのだと、とても強く思うようになっている。

 私たちは文化的プロフェッショナルである。文化的プロフェショナルは地方においては数が少ない。画家や音楽家が居るという人がいるだろうが、その多くは学校の教員であったり、ピアノを教える先生だったりする。本業は別に持っているわけだから、完全にプロだというわけではない。陶芸家は殆どの場合がプロフェッショナルだ。天草の場合陶芸教室を生業にしている人は殆ど居ないので、陶芸家と言われる職業の場合。殆どプロフェショナルということになる。しかもすべての陶芸家が土の選択から作品を作ること、販売までも一手にこなしている人達だ。こうったプロの集団がいる地域はそれほど多くない。ましてや、天草のように全体がまとまっているところ、ほとんど存在しない。とくに8代・・・250年間続いている窯元の存在は大きい。200年の風雪に耐えているわけだから、並大抵のことではないと思う。178年続いている窯元の私がいうのだから・・・間違いであるはずがない。20年や30年とは訳が違う苦労が存在するのだ。

 例えば今回のゲストの招致についても、陶芸家ということで相手の敷居が下がってくる。陶芸家という職業は案外世の中での認知度と許容度が高い。もちろん相手次第だが、陶芸家ということで随分と信用してもらうことも多い。もっともそれは私が作り上げた信用ではなく、私以前の人々が営々として作り上げた信用だ。今年の夏に制作した天草窯元マップには『窯元推薦の食事処』という記事を挿入した。窯元が推薦するということで、信用度が高いと好評をいただいている。天草大陶磁器展はゲストが多彩だと驚かれることが多い。誰が呼んでいるのですかと聞かれることも多い。実際には我々が人脈を駆使してゲストを招聘している。これも私達がプロフェショナルだからこそなせる技だと思う。今回3回目の招聘となる近藤良平氏は、次男が三宅島にワークショップに行った時、隣の部屋で楽器を弾き続けていた人だった。舞踏家なのか音楽家なのか・・・・そんな縁で始まった天草での一人舞台だ。他ではやんないよ・・・という言葉が強く残っている。陶芸家の底力のような話だと思っている。我々がこの血で果たすべき役割の一つだと考えている。
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| 陶芸 | 17:11 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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39年前の私に伝えたいこと

 僕・・・不満です。この言葉は私のところで修業を始めた、18歳の弟子が私に言った言葉。修業一年目の秋にそう言ってきた。雑用ばかりやらされたので、こう言ったと思うが。何処が間違っているのか・・・私は多重間違いだと思っている。第1の間違いは修業とはそう云うものであるという認識が欠けていること。第2の間違いはそれを私にいってきたこと。もっとも間違いは殆どの場合多重間違いなのだが。この場合は兄弟子にそう言って殴ってもらうのが正解です。
 金澤さん理不尽です。この言葉は22歳の青年が弟子入りした年に私に言った言葉。これは正しい言葉です。本人は間違っていますが、本当のことです。修業とは理不尽に思えるものなのです。しかし実際には極めて合理的なシステムです。そのことが判るのは、修業が終わった人のみです。残念なことですが。。。
 僕・・・器用ですよね。この言葉には思わず絶句しました。何という芳ばしい危険な言葉でしょうか。ひょっとして皆さんの中にも、こういった妄想を持っている人が居るのではないでしょうか。恐ろしいことですよ。ほんとうに恐ろしい妄想です。素人って本当に恐ろしい妄想を抱いてしまうものです。私は彼にお前が器用だと思ったことは、一瞬もないと正しい回答をしました。彼は何でですか・・・と喰い下がったので・・・私の弟子の範囲では器用だと思う辻口くんのところに行って・・・目を観ながら聞いてみろ。。。と答えました。断言します。彼は陶芸史に残る器用な人では絶対にありません。ココには居るかもしれませんが。

 上に上げた事例には、はっきりとした欠陥があります。職業観・歴史観・未来感がないのです。つまりは大局観に欠けた発言ということになります。皆さんは一番経験値が高い人でも、2年半の修業をした人というくらいです。徒弟制度でいえば、丁稚、見習いといったところです。このような研修の大きな問題点を指摘すると、それは丁稚程度の人しか居ないということです。本来の徒弟制度はピラミッドの形をしています。しかし、3年限りの研修では15人の2層と専科と言われる数人の人しか居ません。何故そうなっているのか?これも答えは簡単なことです。大学が4年制。大学院が2年制。その半分ですよね。徒弟学校はダメだと維新政府は考えたのです。その流れの中で半分でいいという結論付けされていると私は思っています。徒弟制度は数百年の歴史を持っています。対して近代の教育制度は、日本では百数十年の歴史しかありません。工人の教育システムとしてどちらが優れているか、私は徒弟制度のほうが優れていると考えています。販売を切り離しているところも大きな欠点です。例えばこの研修所に月間で一万個の注文があったとします。それだけで技量は飛躍的に向上します。合理性が高まるからです。かって存在した工房内の徒弟制度では生産量の増大という命題だけで、仕組みが出来上がっていました。それを再現するのです。出来た製品は海外に補助としてあげたらいいんです。売上は運営費に当てて、利益の一部は研修生に分配する。とても腕が上がりますよ。

 今日のテーマは39年前の私に伝えたいこととしています。省みて私に伝えたい事は、どんな自分になりたいのかをしっかりと考えておけということです。人生は一度きりしか無いのだから、自分のなりたい自分を目指せと伝えたい。そのためには目標を書いてみろ。それを成就するためには何が必要なのかを考えろ。陶芸家になろうと思うのであれば、自分の出せるありったけの金を出して最も好きな作家の作品を買え。そこがお前の原点になるんだ。買った作品は毎日使え。そして次の買うべき作品の目標を決めろ。自分が住むべき環境と生きるべき周囲を作れ。理想の環境を作ったら、そこにあるべき作品が見えてくる。自分の職業についても常に考えを巡らせ。職業は人を作るのだから、自らの職業に誇りを持て。歴史を学び考察しろ。全てには因果がある。因果が考察できれば・・・今からがわかってくる。このことを肝に銘じて進んで行け。と伝えたいと思います。

| 陶芸 | 11:31 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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職業観。歴史観。未来感。つまりは大局観

 日本には備前焼や信楽焼など・・・いわゆる6古窯を呼ばれる窯場も存在する。それ以外にも様々な要素や形態の窯場があり、とりどりの窯が存在している。この土地・・・石川にも陶芸の歴史が濃ゆく存在しているし、私が住む天草にも天草陶石があり、陶芸という視点で見て面白い場所がある。時間的な制約があるので個々の窯場の話をすることは出来ないが、明治維新後の陶芸のおおまかな流れを話してみたい。ここでは工業的な焼き物の話は除外する。明治維新後、御庭焼と言われた焼き物が相次いで廃業した。それまでは扶持米をもらい、窯経営の基礎としていたわけだから、藩の庇護が無くなり、継続が困難になったことが主因だ。それ以外にも手工芸的な手法で作品を作っていた窯元は苦境に襲われる。機械生産の焼き物が沢山出てきたからだ。産業革命の本質は『良質なものを安価にあまねく』という方向に進むのが原則だ。白くて薄く丈夫な焼き物が工業的手法で量産された。もちろん産業革命は全国に瞬時に広がったわけではない。したがって当初は緩やかな広がりだったが、それでも産業革命は確実に広がっていった。次にコンクリート製品やビニール製品。それから水道の普及により、瓶や土管など・・・荒物と言われる焼き物を作っていた窯が一瞬で衰退する。瓦なども以前はその土地の土を使い風土に合ったものを作ることが、一般的だったが、コンクリート瓦などの普及と瓦工場の大規模化で、地方における瓦の製造工場は衰退していった。

 このような状況を幾ばくか救ったのは民芸運動だった。柳宗悦が提唱したこの運動は民衆が作り上げた集団美を再発見したもので、工業的なものではない、工芸的なものについての見直しの機運が高まってゆく。もちろん、それ以前にも東京藝術大学に工芸部門が作られたり、今の日展・・帝展にも工芸部門が作られたりと、伝統的な工芸を見直す動きはも確かに存在した・・・・柳の提唱した民芸とは『無知なる工人が一心不乱に轆轤を回し続けることにより、日常美すなわち用美が生まれる』大まかにいえばこのような考え方で、世界中から民芸品(民衆の芸術)を集めて展示したりした。そういった流れが起こった後・・・伝統的な手法で作られた作品を美術工芸に高める企てとして、伝統工芸展などが起こった、これは個人の作品に、より強く光を当てる試みで、以降。。。作家と呼ばれる人たちがたくさん出てくる。民芸でいえば濱田庄司。富本憲吉。河井寛次郎など・・・志野には荒川豊蔵や加藤唐九郎。九谷でいえば徳田八十吉のような、巨匠と言われるような人達を排出した。京都では八木一夫などが走泥社を設立し、前衛的な陶芸を発表し、それ以外にもキラ星のように作家が誕生した。伝産法が施行されたのは昭和49年。当初は大規模産地のみの指定だったが、現在は天草のような小規模な産地も指定を受けている。何故、小規模産地も指定を受けることが出来るようになったのか・・・理由は簡単な話で、伝統的工芸産業の従事者が減っているから。つまり、日本の伝統的工芸品産業は、驚くほどの速度で従事者が減り続けているということになる。伝統工芸の危機的状況ということがよく言われるようになったが、伝統工芸自体これからどうなってゆくのだろう。

 ここで私のことを少し話してみたい。私の工房は丸尾焼という。創業は弘化2年・・・といっても、当初は瓶を作る焼物屋として始まった。比較的大きな農家だったため、小作人の作間稼ぎとして製陶を始めたらしい。周辺にも瓶を作る工場が15軒ほどあり・・・多くは瓶納屋と呼ばれいた・・・我が家も親戚間では瓶納屋と呼ばれている。初代と2代は経営者というより、本職は地主だから。。自分で焼き物は作らなかった。3代は有田工業に学び。それから東京工業大学経由で、商工省に入り地方商工技師として全国を回る。山形や沖縄。栃木県の益子では初代の指導所長として赴任していたそうだ。父と叔父はともに医学部に進んだが、叔父は朝鮮にあった大学に進んだため、大学2年の時に終戦を迎え、祖父の焼き物屋になれという言葉を受けて陶芸を始めた。結局、土仕事には馴染めず身体障害者の施設を作り、実作はほとんどしなかった。5代目の私で初めて実際に焼き物を作る側に・・・現在、私は熊本県の伝統工芸協会長や天草大陶磁器展実行委員会の実行委員長を務めている。もうじき60になるので隠居したいと思っているが、3人の子供が全員陶芸をやっているので、もうしばらくは現役を続けるしかない状況だ。私の修行時代は作家の人達がキラキラしていたので、私の周囲の人達は、私が作家の道を選ぶものだと思っていたようだ。日常に使う生活陶器を作りたいと思い、叔父から跡を引き継いだ。そう考えた最大の理由は、工芸は個人で行うものではなく、集団で行うべきものだと考えたからだ。特定のお金持ちではなく、生きることにささやかもしれないが、何がしかの思いを持っている人たちが、使いたいと思うような作品群を集団で作りたいと思ったからだ。そのことは間違いだったと思わないが、一つ見込み違いが有ったとすれば、現代の弟子はほぼ10年で独立するケースが圧倒的なこと。左うちわになることを望んできたが、みんなが独立するので息子達だよりとなっている。最近、息子たちさえも独立したいと言い出してきて・・・本当に困っている。

 かなり端折って話をしてきたが、私は学者ではないのでご容赦願いたい。1時間半という時間の中で39年前の私自身に伝えたい事を考えた時に、工芸という仕事の現在における特殊性と歴史というよりも・・・陶芸の流れについては、どうしても伝えておきたいと思い至ったのだ。我々は何処から来て、今何処にいて、今から何処に行こうとしているのか。このことを考える上で絶対に必要なことがある。それは・・・職業観と歴史観だと私は考えている。これに未来観を加えれば、無敵になるだろう。今から私の未来観を話してみたいと思う。私は1年ほど前までは、これからの世界はグローバル化するだろうと決めつけていた。結果としてウイナーズ・テイク・オールの世界になるだろうと考えていた。しかし今の世界情勢を見るにつけ、恐らくこれからの世界はグローバル化とローカル化が同時進行する、世の中になるのだろうと考えるようになった。そう考えると辻褄が合ってくるからだ。ヨーロッパやアメリカの混乱。中国やアジアの混迷。日本においても中央である東京と地方との格差。つい最近まで私はグローバル資本主義が一方的に勝利するだろうと考えていた。日本ていえば一極集中が勝利するだろうと考えていた。しかし今の世界情勢という大きな流れを見るにつけ、これから先はグローバル一本では世界は立ちゆかなくなるだろうと、私は感じている。とすれば・・・我々の得意とする分野が求められる時代がやってくるのではないか。という結論になる。

| 陶芸 | 10:17 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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何処から来て、今何処にいて、今から何処に行こうとしているのか。

 修業の概念について書いた。この国の職人の意識や考え方は、近代化にとって重要な要素としての機能を果たしたとも書いた。日本における工人の職業観は明治維新のはるか以前に確立した。生産工程上の合理性こそが現代とも言えるが、その系譜は工人たる職人の世界観に端を発していると思う。工業的な生産手段がもてはやされているが、原初をたどれば職人的な生産改革に至る。日本には明治維新以前に確立した職業観があり、集団で物を作る工程が存在していた。家内制手工業がすでに成熟していたのだ。明治維新。日本は西洋的な近代化を国の目標と定めた。更に、今までの生産手段である、家内制手工業を半ば否定するような政策をとった。端的に言えば、スクラップアンドビルト。古い生産工程を破壊して、近代的な生産工程を導入したのだ。脱亜欧入・・・近代化が至上命題だった。近代化が遅れると列強による植民地支配が起こるかもしれない。それは恐怖に近い思いでもあった。結果として、古いものを打ち壊し、新しい近代的な生産手段が奨励される。

 重工業は国家が、軽工業は民間が担うことになる。結果として日本は目覚ましい成果を上げ、非常に短期間に列強に伍する国家を作り上げた。もっとも近代工業に属さないところでは、職人の世界は工業化と共存する形で、残っていった。小規模の建築業。料理人。理髪師。今の時代でいえば伝統的工芸品の従事者等など・・・手職と言われる職業の人達は、工業的というよりもむしろ工芸的な方法で、職業の継続を行ってきた。当初それらは伝習所と呼ばれることが多かった。大工の伝習所。焼き物の伝習所・・・意味は読んで字の如く『つたえならうところ』恐らくこういった施設が、工業学校の対極にある職人的な技術を『つたえならうところ』だろう。最初に私は熊本県伝統工芸後継者育成事業という制度で研修を始めたと話した。この施設も基本的には伝習所というべき存在で、石川県のこの施設も理念とする方向は同じではないかと想像している。明治以降に明治以前に成立した職業を教育する場所が、公共的に作られた背景には、家内制手工業的な生産形態が衰退していったという背景がある。それ以前は窯元毎に徒弟制度的ないわば工房内教育が行われていたが、明治以降は工業的手法で生産を行う製陶工場が増えてきて、徒弟制度というよりも工業的手法での生産が、一般的になったということだろう。

 以来百数十年。日本の陶磁器産業は工業的にいえば世界のトップクラスにまで成長している。もっとも、明治期以前の陶磁器が世界的に見てレベルが低かったかといえばそうではなく、日本の陶磁器は世界的に見てもとても高いところにあった。これは、陶芸という仕事が文化・文明という視点で見て、高いレベルのところにしか育たないということを物語っている。現在の日本には京セラに代表されるファイン系セラミックス。伊奈・東陶をはじめとする衛生陶器。碍子の技術やタイルの技術も世界トップクラスだ。瀬戸地方の陶磁器。ここも工業的製造に関して世界でも有数の産地である。対して、手仕事と称される我々の仕事はどうだろう。これも先ほど指摘したとおり、徳川時代の中頃には磁器の生産が盛んとなっていたし、それ以前・・・安土桃山時代には様々な焼き物が焼かれ始めていた。この文化の先鞭者は織田信長であり、信長が様々な文化的なものに付加価値を打ち立てたことによって、日本の焼き物は諸外国と比べても、異彩を放つほどの文化的資源となった。織田信長に千利休。豊臣秀吉・・・彼らの存在は室町時代より続く国風文化のいわば到達点であり、我々の今は・・・その延長線にあると言っても過言ではないと私は考えている。

 戦国時代の終焉を受けて、諸大名は泰平の世を実感する。争いの終焉は平安の始まりでもあるからだ。彼らは御庭焼と称する窯を作り、自ら好みの焼き物を作ることがブームとなる。現代まで継続している窯も少なくはないが、明治期に殿様の手を離れた結果として、安定的に作品を供給しているところは非常に少ない。熊本の御庭焼といえば高田焼。この窯元は朝鮮より連れてこられた上野そんかい(キゾウ)が開祖だが、明治のはじめに一旦途絶えている。ちにみに、現在・・・15代16代と続いている窯元は殆ど、秀吉が朝鮮出兵の時に連れてこられた陶工の末裔である場合が多い。この後・・・日本の鎖国体制が確立し、農業生産量が増大する。石川は・・・というより加賀藩は100万石。恐らく実質は持っと沢山の米が取れていたはずだ。米穀主義の最盛期は江戸時代初期。その後、田沼意次が出て行った政策が殖産興業だ。私が住んでいる天草に最も近い陶芸産地は佐賀県。ここには唐津焼もあるし有田焼も存在する。分類すると産地の本質が見えてくる。唐津焼は陶器。有田焼は磁器。唐津焼は民間の窯。有田焼は官製の窯。唐津焼は一楽二萩三唐津と言われるように茶陶と言われる焼物。有田焼は肥前藩が作った殖産興業の窯。高級ブランドが鍋島・・・ 前者は茶陶系・・・つまり織田信長利休のライン。後者は殖産興業系の藩窯。言い換えれば唐津焼は朝鮮系と言われるが、茶陶に代表される国風文化の象徴であり、有田焼は現代の陶器産業の一つの始点といえる。現代でも茶陶は個人であり、磁器は集団・会社というイメージがあるが、それは、有田焼が藩立であり徹底した分業化を行ったということでもある。徹底した分業化により生産効率を上げる。この業態の熟成こそが明治維新の富国強兵。産業育成の礎だったということが出来るのだ。

| 陶芸 | 13:38 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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修業とは・・・

 職人の技術は生産性を増大するための徹底した指導だと書いた。生産現場である以上、生産性の向上は工房の利益に直結する。工房で働く職人たちは、修業のはじまりから徹底して生産性の向上。単位時間あたりの生産量の向上のための技術を叩き込まれる。工房を支配している意識は合理主義だ。どのように時間を使い、生産性を上げるかという課題は、現代のみのテーマではない。製造における合理性とは、単に作品を早く作るということだけでもない。時に高度な技術を駆使し、高いレベルの作品を作ることもあるが、その場合も根底には合理的な思考が存在している。つまり、本質的な職人は生産性を高めるという気概に支配された、合理的な思考をする人達だということも出来る。よく・・・職人は気難しい人が多く、他の人達からは理解されにくいという人がいるが、それは職人に対する間違った解釈だ。彼らは修業の初期の段階である子取りの時代から、生産性の向上という課題と向き合いながら、工房内の秩序に沿って仕事を覚えていく。動線であったり、工房内の仕事の進捗状況の観察であったり、先輩職人の仕事の状況確認をしながら、どう動けば一番効率的なのかを覚えていく。工房の生産性の向上のための思考や行動基準こそが、職人の仕事そのものだと私は考えている。

 現代における職人という言葉をよく耳にする。現代における職人を言葉で表すとすれば『工芸的な手法での卓越した生産技術を保持し、機械よりも高い精度で求められた作品を生産することの出来る人』ということだろう。こういう人たちは何も江戸時代にのみ存在していたわけではない。現代の最先端の工場にも必ずそういう人は存在する。このことをどう捉えればいいのだろうか。私はその根底には日本人の労働に関しての感性が存在していると考えている。古くは鎌倉武士の一所懸命。一つの定められた場所を命をかけて守る。という考え方だ。仏教用語では一隅を照らすという教えがある。これは人とは一隅を照らす事により仏道に至るという考え方で、精神世界の考え方の一つとなっている。私の住んでいる天草はかって『島原・天草の乱』というキリシタン一揆が起こった場所として知られている。乱の後・・・天草は天領となり、代官が赴任してきた。初代代官鈴木重成の兄鈴木正三は徳川の旗本から仏門に入った僧侶、その正三に村の娘が問うたと言われていることがある『身分の低い百姓でも仏性を得られるのか』という問いかけだ。この問いに対し『百姓は鍬を持ち一心不乱に耕すことにより、仏性に至る』と答えたという。鈴木正三は足助という合併で豊田市になった町の出身。トヨタのカンバン方式や改善という考え方の根底に、鈴木正三の仏教観があるような気がしてならない。

 仕事という言葉を辞書で引くと『しなければならないこと』とある。何のためにかと考えると、『生きていくために』だろう。簡単に断じると・・・仕事とは『生きていくためにしなければならないこと』ということになる。職人は実際のところ様々な分野に存在していた。焼物職人もいるし、大工なども職人だ。士農工商の時代では工を担う人々は概ね職人と呼ばれていた。職制が定まった職業においては、雇用も体系付けられていて、職域毎に育成プログラムが存在していた。子取りもそうであり、窯焚きさんもそうである。生産性の向上を常に求められたということは・・・逆から考えれば、注文も沢山有ったということにほかならない。つまりマニュファクチュアルなものが、現代の工業製品と同じだったということでもあるわけだ。だから、明治のはじめにインダストリアル。産業・工業という概念が輸入された時に、今まで自分たちが行ってきた生産方法は何なのか・・・という問いが起こり、工業に対する工芸という概念が生まれた。ここであらためて職人の定義を考えてみたい。『工芸における職人とは、需要が強い状況において、生産量を増大するための合理的手段を、常に改善する人達あるいは個人』という定義になるのではないか。現代でも一番修業効率がいいのは『売れっ子の個人作家のところに弟子入りすること』と言われている。

 仕事が沢山あって忙しく厳しいところに入るべきだ。。。これは陶芸だけの真理だろうか。私はそうではないと思う。これは仕事を身につけようとする人達に対する共通の真理ではないか。工芸的なことにも言えるし、工業的なことにも言えることだ。皆さんが今まで居た世界は65点でOKが出た世界。落第しなかったかもしれない。でも、工芸という世界では65点は落第する点数だ。修業の世界で65点でしのげるのか?修業とは生業を修めると書く。生業とは一生を通す仕事のこと。このことが案外見逃されている。これは江戸時代も明治時代も、平成の現代も同じことだろう。『修業とは・・・自らが行う生産行為に、喜びを見つけ、合理的に最大限の生産を行うため、基礎的な技術を身につけること』ではないかと、私は考えている。もちろんその先には現代性であるとか、感性の領域のことが散々入ってくるわけだが・・・・

| 陶芸 | 10:02 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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