丸尾焼窯元日記

熊本県天草市にある丸尾焼という窯元の窯元日記です。陶芸に興味のある方はチェックすると面白いかも・

| PAGE-SELECT |

≫ EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

京都での通夜と葬儀

 忙しい日々が相変わらず続いている。10月9日にいとこが急逝し、京都での通夜と葬儀に参列してきた。父方の従兄弟で、そこはかとなく面白い人だったので、私自身動揺が強かった。。。今年の6月に兄の娘の結婚式に来てくれた時は、体が悪そうには見えなかったのだが、8月から少し・・・体調が悪くなり、9月から入院をしていたらしい。あまり体調が良くないという連絡が入ってから、数日間で様態が悪くなったらしく、あったいう間の出来事だった。享年73歳。本人が一番残念だとは思うが、我々もほんとうに残念な気持ちで、やりきれない思いを抱いている。京都1泊2日の強行軍での葬送だったが、まみえることなく、いなくなったので現実感に乏しい二日間だった。冥福を祈るしかない。人の世とはそういう定めなのだとあらためて思っている。

 当初は通夜だけの参列を考えていた。途中から思い直して葬儀まで参列することにしたのだが、私の勘違いで会議を一つ飛ばしてしまった。通夜のみの参列ということで、10日の6時に京都に着いて、終わり次第帰るという日程で最初は調整していた。11日に一つ予定が入っていたのだが、12日に別の予定が入っていて、途中からどちらも12日の予定だと勘違いしたのだ。原因は私が12日の予定を間違えて、11日のスケジュールに入れてしまい、どちらも12日だと私が錯覚したのだ。滅多に無いことだが、滅多に無いことが起こってしまうのも、私が動転していたからかもしれない。数名の方に迷惑をかけてしまった。申し訳ないことをしたと反省している。皆さんが善意に解釈してくれたのでとても救われている。

 天草に帰ったら色々仕事が待ち構えていた。今日は朝から保育園の陶芸教室。私の小さい時からの先輩が声をかけてくれた話なので、いい形で進めたいと思っていたが、準備不足で考えが今ひとつ明確でなかった。こういう保育園のイベントは仕掛けをどう作るかで、出来不出来が決まってしまう。保育園児は個としてはまだ未成熟なので、ツールとして粘土をどう使うかが成否の決め手となる。今回は全体を3つのブロックにして第1部玉作り、第2部を手形取り、第3部を自分の作りたいものを作る・・・という構成にした。1時間10分ほどの時間ではあったが、皆が集中して作業ができていたので、出来高としては良かったと思う。朝8時から一時間掛けて思案をめぐらした、甲斐があったように思う。

 京都はとんぼ返りだったが、新幹線沿線の街の時間的な近さに驚くことが多かった。天草から2時間半かけて車で熊本駅に着いたが、その時間があれば熊本から広島を過ぎるところまで行ってしまう。新幹線に乗ると何時も思うことだが、新幹線は移動ということに関しては、革命的だとさえ思う。福岡から鹿児島まで2時間掛からない。天草に住むということは、一番近隣の都会に行くだけで2時間以上の時間がかかる。飛行機で福岡に行くこともあるが、およそ35分で福岡に行くことが出来る。ゆっくり時間を掛けて移動することも悪くはないのだが、急ぐときには時間を短縮する方法が有るのと無いのでは・・・相当に違うと思う。天草に住む・・・時間と如何に付き合うのか。そんなことを思ったりしている。 
スポンサーサイト

| 追悼 | 18:28 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

通夜に出て考えたこと。

 狩野琇鵬師の通夜に参列。能楽関係者の人たちや文化関係の人たちが多数みえていた。人を送るのは定めとはいえ、生き様をいろいろと考えさせられる。琇鵬師の通夜の席でも師の生き様を考えさせられた。師は40歳台の時に大きな病をされたようだ。それ以降・・・師は病との戦いだったと・・・了一師が通夜の御礼の時に話をされた。能楽師は頑強な肉体が必要であり、それに勝るような精神力も備わっていなければならない仕事。一昨日の日記に身一つ・・・について書いたが、身一つであればこそ・・・身は唯一無二に大切なものとなる。病を得られた後は、肉体と常に対話しながら、務めを果たされてきたのだろう。能楽では「時分の華」ということがよくいわれる。若いときには若いなりに、歳を取れば歳を取ったなりに、その時分の華を意識し舞い、謡う・・・病を得てからの狩野琇鵬師は、そのことを常に思いながら、能に向き合っていたのだろうと思う。

 通夜に参列するだけでも、その人の人生を垣間見ることが出来る。昨日の通夜もとても誠実に人生を生きている人の姿を見ることができた。狩野琇鵬師は数多くの弟子を持っておられるが、その人達一人一人も本当に素晴らしい人だと、いつも諸先輩方を観ながら敬服している。特に昨日のような師匠の死に対しての態度を観れば、人は人を呼ぶのだということを改めて教えられた。もちろん人間である以上・・・万能ではない。万能ではないが、それを補うのが、人格なのだろう。身一つで人生を送りきる覚悟。それがあるからこそ、安心して生きることも出来るのだ。そういう意味では能楽の世界は700年の歴史があり、そこに生きて死んだ人達の歴史がある。先人が居るからこそ、安心して道を歩くことが出来るとも言えるわけで、長い時間で形成された社会合意だと思う。

 了一師もその延長線上に生きている人だ。師は東京を中心として活動しているので、これからも東京の第一線で活躍することになるはずだ。おそらく喜多流の中心として能楽を背負うような人になるのだろう。これから・・・了一師を観ることは・・・とても楽しみなことになる。そう考えれば一人の能楽師を知るということは、能楽全体を知るということにもなる。そこには古の人達の観能に対する・・・あるいは人の生き様に対する、楽しみ方の根本のようなものがあるように思えてならない。もっとも、このような感想は私のようなにわかな人間が表層のみをとらえての感想にすぎないと思うのだけれど・・・

 通夜に参列する前に次男の子供を見に行く。七夕に生まれていたが、少し早く生まれたこともあり、直接的な接触が出来なかった。23日に退院して長男の妻の実家にいたのだが、日程的な折り合いがつかず・・・なかなか会うことが出来なかった。たまたま20分ほど時間がとれたので、実家に立ち寄ることができた。まだ小さいので壊れそうでほんの一瞬しか抱くことが出来なかったが、五体満足・・・しっかりとした目鼻立ちで、二人目の孫に感慨もひとしおだった。亡くなるということ・・・生まれるということ。それが生き物の定めなのだと、改めて思った一日だった。12時前に天草に帰り着き・・・ばたばたした一日が終わった。

| 追悼 | 14:05 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

狩野琇鵬師・・・逝く。

 昨日、狩野琇鵬師が亡くなった。行年79歳。我が能楽の師匠・・・狩野了一師の父君。かれこれ20年近くのお付き合いだった。お付き合いというのも本当は憚られる。ひょうんなことから狩野了一師に、謡と仕舞いの稽古を付けていただくことになった。稽古を付けてもらうようになった理由は、稽古を付けて貰う人が少なかったからだ。了一師に天草にまで来ていただくわけだから、ある程度の人間がいないと失礼でしょう・・・ということで、どういうわけか、私も仕舞いと謡を習うことになったのだ。もっとも私は最低の弟子で・・・ほとんどその場限りの稽古だった、弟子として何の進展もなく、一体全体何を習ったのか・・・今思い出しても赤面するような状態が長く続いた。毎年の発表会が一番の苦痛で、そのたびに父である狩野琇鵬師より、慰めの言葉をいただいた・・・その中で「仕舞いや謡は身嗜みですから」という言葉が今でも耳に焼き付いている。

 身嗜みという言葉は最近は死語になりつつあるが、人として生きていく上で本来はとても重要なことではないか。能楽はすべての歌舞謡曲の最上位にあるもの。。。それを身につければ基本的にはあらゆる歌舞謡曲の、所作を理解することが出来る。基を知ることが一番重要であるという考えが、身嗜みに通じているのだと思う。もちろん能楽という行為は、ありとあらゆる舞楽の中で一番過酷な修練が必要である。そんな高みに私如きが行けるわけないので・・・素謡や仕舞いの稽古をつけて貰い、深淵の一端を垣間見ることにより、身嗜みとするのが、私なりにとらえた・・・嗜みだと思っている。能楽師は総じて身嗜みが整っているというのは、当たり前の話で・・・身嗜みの本山のようなものだろう。能楽の世界は身一つともいわれる。ともすれば舞台の設えまでも自分たちで行うのだから、日頃がとても重要になるのだ。

 能楽師の頭の中には200曲の楽曲が入っているといわれている。幼少の頃に頭にたたき込めば、人はそこまで達することが出来る。了一師に聞いたことがあるが、演じる1日前に謡い本でさらえば・・・ほとんど思い出すことが出来るのだそうだ。普段から演じられる演目は頭に入っていることはあるだろうが、あまり演じられることのないものは・・・大変だろうと思いながら・・・話を聞いた記憶がある。能楽の世界にはとんでもない演じ手が存在する。世阿弥はもちろんのこと、歴史に残る演じ手が綺羅星のように存在する。そのような人たちに身一つで対峙するにはどういう覚悟が必要なのだろう。能楽師に畏敬の念を持つ理由はこのあたりにあるのかも知れない。

 能楽師は身一つと書いた。私は身一つこそが・・・最も強い形態なのではないかと考えている。能楽が長く続いてきた理由の一つは、身一つ故だと思う。それは時代を超えた真実ではないのか。ものを作る人間は社会に対してものを供給するということで結びついている。つまり、もので社会との関係性が成り立っているわけだ。対して能楽師は身一つで社会との関係が成り立っている。身一つを獲得するために物心つく前から修行が始まる。ある程度の年齢になると一通りのことが出来るようになっていて、道を究めるための舞台が整っている。道具立てが良いとか、持ち物が良いというわけでもなく・・・身一つで身を立てる環境が準備されているわけだ。能楽師の厳しさと、能楽師の至高がそこにあるような気がしてならない。狩野琇鵬師。人としても素晴らしい方だった。ご冥福を心より・・・お祈りしたい。

| 追悼 | 15:35 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

水前寺きなこが亡くなった。 2012年3月13日

 天草大陶磁器展の時に街中ギャラリーのイベントに出て貰った水前寺きなこ氏が亡くなった。彼は私より一つ若いので今年53歳になる。イベントのあとに私の工房に泊まり、これからのことを二人で話した。彼は音楽のことを真剣に考え始めていて、本格的に歌を歌っていこうということを、私に話してくれた。良い味の人という風情でニューオリオンズにいる枯れたおじさんの風情がする人だった。彼の歌が好きな人も多く。熱心にライブを見に行く人もいた。ただ、何処かに薄幸な気配も漂っていて、その正体が何であるのかは、考えたこともなかったが・・・訃報に接し・・・接したあとに、唖然としながらも、そういった気配が全くない人ではなかったと思ったりもした。私はなくなったという知らせを昨日聞いたのだが、昨日今日と日記を書く気力が湧かなかった。それは恐らく彼が去年の秋口に語った、これから先音楽に積極的に関わっていきたいといった言葉に、何か大きくはないのだが、面白い展開になるのではないかという、そんな予感を感じたからだと思う。メジャーにはなれないかも知れないが、知る人ぞ知るような音楽を奏でるのではないかという・・・そんなことを思ったからだ。

 この歳になると有名になりたいという願望は少なくなってくる(もっとも私は最初から有名になりたいと思わなかったが・・・)ただ、なにがしかの真実が欲しいと、若い時よりも強く思うようになる。私が彼に関して、道を見つけたのではないかと思った理由はこのあたりにあった。天命という事なのかも知れない。残り時間が少なくなると、人は少しずつ諦めていく。若い時には100以上の夢と希望があったのが、しっかりと歩いていっても・・・全部出来る訳がないことに気がつくからだ。子どもの頃は時間は無限にあると思い込んでいた。20の頃には時間は有限だと気がついたが、自分はまだなんでも出来るだろうと思い込んでいた。100は出来ないだろうという思いが次第に大きくなって、30に辿り着く頃には、50も出来れば上出来ではないかなどと思っていた。40の時にはその数も減り続け20に絞って考えなければならないと思っていたし、50の時には出来れば10くらいの夢を成し遂げられればと思っていた。最近の私はこの分では一つのことさえも、成し遂げられないかも知れないと思い始めている。天命とは小さい時から思い描いた夢という選択の、最後の一つを決める段階なのかも知れないと思う。

 水前寺きなこ氏とは5年ほど前に知り合った。年が一つ違うのだが共通の友達が何人も居たので、何処かですれ違っていたのかも知れないが、それ以前の記憶は全くない。知り合った時から水前寺きなこという名前で紹介を受けたので、私は彼の本名も知らない。天命を知ったのかも知れないと書いたが、枯れもまた色々なことを経験して、最後に音楽の道が残ったのかも知れないと思う。音楽と言うよりも彼の持つ切なさや、やさしさや、悲しみを歌というツールを使って、人に伝えたいと思ったのだと思う。多くの人が天命に気がつきながらも、気が付かないフリをして生きていく中で、彼は自分の残り時間を考え、音楽活動に向き合おうとしはじめた時だったと思う。陶芸展のステージのあとにもう一度工房の展示室でライブをして貰った。私はどうしても外せない用件があり、残念なことにそのライブを聴くことが出来なかった。また今度何処かで聞けばいいだろうと自分に言い聞かせながら、工房をあとにしたことを昨日のことのように覚えている。彼のライブを見る機会はこれからも沢山あると思っていた。長男がどうしてもやりたいと言うことで開催したライブだったので、長男に後を託した。

 自分たちも吃驚したが、本人が一番驚いているんじゃない。と葬儀から帰った長男が私に言った。送ってきたよと長男が言った。私は彼の無念と対峙出来る自信がなかったので、葬儀には行かなかった。天命を知った彼は、恐らく天命を知った顔になっていたはずだ。亡くなればその意志は既に無くなっているだろう。天命からほとけるのでほとけ様というのではないか。亡骸を観た時に私は何時もそう感じるのだ。送ることも供養だが・・・送らないことも供養だと自分に言い聞かせた。観なければ彼の天命を私は感じ続けることが出来る。観れば喪失したものが迫りすぎて・・・対峙した後に混乱するかもしてない。そう思ったのだ。人は何故夢を見るのか・・・恐らくそれは人生を豊にするプロセスなのだろう。小さい頃に多くの夢と希望を持つことはよいことだ。しかし、歳を取るに付け、夢の数はどんどん減っていくのだろう。最後に残るのは片手で数えるくらいかも知れない。最後にあった時の水前寺きなこは自分の天命を見つけた顔をしていた。道が定まったかも知れないと私は感じていた。それだけに残念でならない。残酷な話だと思う。

| 追悼 | 17:29 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

| PAGE-SELECT |

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。