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丸尾焼窯元日記

熊本県天草市にある丸尾焼という窯元の窯元日記です。陶芸に興味のある方はチェックすると面白いかも・

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現代における徒弟制度を考える1

 明治以前の職業技術習得の最も一般的な方法は徒弟制度だ。弟子として入門して3年間の丁稚奉公。そのあとにお礼奉公が一年。都合4年間で職人としての一通りの技術を身につける。その後は一般的には修行した工房に勤めて、職人としてさらに腕を磨く。およそ10年間で一人前となり、その後は独立する人も居たし、そのまま職人として働く人も居たようだ。私の工房は基本的にこの考え方を継承して工房の運営を行ってきた。現在、丸尾焼で技術を身に付け独立し、生計を立てている人が多い理由は、徒弟制度に近い方法で指導してきたからで、この方法が職人を作るための一番有効な手段だと私は考えている。

 ただし、この方法にも限界がある。旧来(明治時代以前)の徒弟制度では、かなりの人が工房に残っていたのだが、今の時代・・・ほぼ全ての人が独立への道を歩くようになった。例えば10名の弟子が入ったとする。そのうちの半分5名が工房に残ったとすれば、工房の運営に大きな支障は来たさない。各々の習熟度が上がり、工房としての生産量を維持することが出来るからだ。工房は新弟子を取れば取るほど工房の運営は難しくなる。3年、4年の修業期間が過ぎ、ある程度の生産が出来るようになったときに、以前であれば半分程度は工房に残ったが、現在ではほぼ全ての人が独立を目指すからだ。工房の健全運営を考えた時、この事はとても大きな問題となる。1から手ほどきを行い・・・ある程度仕事の計算ができるようになってた時に、殆どの人が独立していけば、工房は独立のための機関に過ぎなくなる。

 私の工房が、現在弟子を取ることを躊躇する一番の理由は、殆どの新人が独立希望者で、工房での修業を独立するための技術習得と考えているからだ。この考え方を否定するつもりはないが、工房としてみれば単体での弟子養成を躊躇する原因となる。技術を教える期間の3年間は、工房としては出費のほうが大きく、入門より3年、4年で工房を離れられると、ようやく仕事が出来るようになった矢先に・・・ある程度の技術を持った人がが居なくなるからだ。陶芸の場合、右も左もわからない状態の人が、ある程度の何かを作るようになるまでは最低でも1年。長い人の場合は3年くらいの月日がかかる。この期間は窯元にとっても手出しが多く、苦労ばかりが目につく期間でもある。

 徒弟制度の肝はギブアンドテイクだと思う。技術を教える代わりに一般的な意味での労力を提供してもらう。ギブの時期が3年、テイクの時間が1年。それから先がイーブンの時間ということだろう。今の時代、どこでも同じだろうが、工房自体に余力がなくなっており、ギブのみ・・・テイクの関係を作れないから、弟子を取るということそのものが無くなってきつつある。ただし、産地形成を行うためには、どうしても徒弟制度に近いシステムを作る必要がある。産地形成の本質は地域における職業の循環システムを如何にして作るかが・・・一番重要な課題だからだ。明治以前の徒弟制度と、明治以降の職業教育制度の中間点に答えはあると思うが、今の人達にはこの点が理解しがたいことのように感じる。徒弟制度を現代にどう結びつけるのか。。。この点について何日か掛けて考えていきたいと思っている。
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| 陶芸 | 15:49 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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短期・中期・長期ビジョン

 この3日間・・・ほとんど何も考えない日々が続いた。何も考えないといっても、生きている以上・・・何かは思っているわけで、考えていないとは、文章として残さない3日間だという含みもある。生きている以上・・・本当は無限に考えているのだろう。人は本質的には常に何かを考えていると思う。考えたことを残していない・・・つまりは、文章にしていないというのが、最初に考えない日々が続いたと書いた理由。。。。考えていないかと問われると常に何がしか考えているわけで、正確に書けば、著在脳ではなく、潜在脳で考えていたと書くほうが、私の実感に近い。日記を毎日書いていると、ついその日のことに追われてしまい、継続的なことを綴ることが疎かになってくる。今日という単位で、何を考えたかが中心となってしまい、あるテーマに的を絞って考えることが少なくなってしまう。

 今私は少々大きなテーマについて考えを巡らしている。天草の陶芸をどの方向に、導いていくべきなのかということが・・・今の一番大きなテーマ。それに付随して様々なサブテーマがあり、更にそれに付随して少項目のテーマがある。そして、各々にあ答えを出さなければならないと思い始めている。人は一年先のことについても明確な景色が見え辛いのに、20年先30年先100年先のことを考える作業を行っているのだから、漠然としたものと明確なものとが入り混じっており、頭が混乱することも多い。基本的には戦略と戦術と作戦ということなのだろうが、そういう幹のようなことから枝葉に至るまで考えるわけだから、一日の思いつきで日記を書くような訳にはいかない。

 もっとも大きな話は、日常の小さなことの集積だから、小さなことをしっかりと考えておかなければ、大きなことには繋がらないと思う。小さなことの延長線上に少し大きなことがあり、その延長線上に一番大きなことがあるから、小さなことに破綻が存在すると、少し先の大きなことにおいては、かなり大きな間違いが起こり、更に先の大きなことの時点では、取り返しのつかない問題が生じるだろう。小さなことが重要な意味は、ここにあると思う。では先の先・・・戦略の先には何を求めるべきなのだろうか。言葉のみで言えば『人が自らの将来に不安を感じずに、生きていける、継続可能な仕組みを作る』ことではないか。もちろん、天草という枠の中で考えることだが、今の天草に一番欠けているのは、その仕組を現代という事象に対して、プラスのメッセージを含みながら作り上げることだろう。

 もちろん、私が思うように未来が開けるわけではない。そんなことは当たり前・・・百も承知だ。ただし方向性が間違っていたら、今がどんなに良くてもすぐに頓挫してしまうだろう。頓挫しないためには方向が間違っていないこと。10年先20年先に目指すべき方向が間違っていれば、50年後100年後にはとんでもない方向へ向かっているはずだ。そんな先のことを私が考える必要はないとも思うが、あとから来る人達に無駄な労力を使わせたくないので、できるだけ今の段階で進むべき道を示しておきたいと思う。私より優秀な人達が違う考えで進んでも構わないが、その人達のためにもやはり進むべき道を示しておいたほうが良いと思う。おそらくこんな面倒なことを考えるような人間は、そうそう生まれないと思うから。未来の人に残しておきたい。この事について時間を掛け考える必要があると思い始めている。

| 陶芸 | 17:36 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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天草大陶磁器展の総括

 天草大陶磁器展の総括の時期に差し掛かっている。今年は天候に恵まれ、会期も6日間と例年より一日長かったので、全体として非常にうまく回すことが出来た。おそらく今年よりもうまくゆく事は今後・・・難しいのではないかという話も出るくらいで、来年、今年より更に良くするためには、一年掛かりで考えていく必要があるのだろう。今年よりも来場者を増やすためには、今年より早くから企画と準備をしておかなければと思う。それが結論であれば、今年度のうちから、準備を進めなければならないし、年間を通した計画もしっかりと創りあげなければならないと思う。

 天草の場合人を呼ぶことから考える必要がある。熊本市からは・・・2時間。福岡からは・・・3時間半。近くに大きな都市が無いことが、天草のもっとも辛いところで、この距離感を覆すためには大きなインパクトの有ることを、もっとたくさん詰め込んでいかなければと思う。それだけの距離と時間を掛けても、行ってみたいと思うような何か。イベントにそういった仕掛けをふんだんに取り入れなければ、これ以上・・・人は集まらないのではないか。陶芸展の来年に向けた課題の肝は、ここにあるというのが、総括においての共通する思いだといえるだろう。それと平行して考えて置かなければならないことは、天草に来た人達に日常的にどうアッピールしていくかだろう。陶芸展は年間で5日間のみの話なのだから、あとの360日をいかにして焼物と地域を結びつけていくかが重要だと思う。

 陶磁器展自体は陶芸の産業化がテーマであり、産業化の基本は如何にしてお金を稼ぐのかということに収斂する。天草で焼物を焼いている人達が、生活しやすい環境を作り上げることが一番重要なことだろう。世界一焼物が売れる場所を作れば、世界中から焼物を作る人が集まってくるに違いない。地域の文化産業である陶芸を、振興するための最も効果のある行為は、焼物が売れる土壌を作ることなのだ。年間5日間焼物が売れる場所を作ることも重要だが、それ以外の360日間のほうがもっと重要だ。360日間天草に来た人達が、焼物を購入して帰っていくというスタイルをどうやって作り上げるか、私達が取り組まなければならないテーマだと思う。

 どの地方もこれから先は、そういった実質的なことを中心とした振興策を打ってくるだろう。地方対地方の地域間競争が生まれることになる。この競争に勝つためには、理性的で合理的な計画を建てられるかどうかに、かかっているだろう。最小の予算で最大の効果が上がる計画を建てることが出来るか・・・自治体としては無限に予算があるのではなく、予算は限られているからだ。今の時代はアメリカ大統領でさえ、アメリカファーストだと宣言する時代である。その根底にはアメリカが繁栄しつつ生き残るというキーワードがあるのだろう。だとすれば・・・我々は天草ファーストで考えていかなければならない。これから先は、天草ファーストで物事を創りあげなければならないと思う。。いまはそういう時代なのだ。陶芸展の総括の始まりはそういうことだと私は考えている。

| 陶芸 | 00:32 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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修業はブラックなのだ。

 工芸という仕事は全て明治以前に骨格が作り上げられている。およそ700年前に成立したと言われている仕事だ。この仕事をつぶさに観察すると、現代とは相容れない部分がたくさん存在することに気がつく。工芸の職業習得のやり方一つとっても、徒弟制度・・・これが工芸家の職業習得の基本だった。この仕組は今の時代ではブラックと言われたりする。つまり、徒弟制度は現代におけるブラックな仕事なのだ。過剰な残業時間が話題になっているが、技術習得のためには過剰な仕事をこなす必要がある。手職の場合。。。技術を向上させるためには、過剰と思われる仕事を与える必要がある。例えば湯のみを200個作るように数を求めた場合、言われた当初は翌日の朝方まで時間が掛かったりする。この時間をブラックと考えるのか、技術を習得するための特別な時間と考えるかで、技術の向上は格段に違ってくる。最初の日に午前3時までかかったとしても、翌日には午前1時半位には仕事を終えることができるようになるのだ。最短でノルマを達成できるようにするには、ある程度の無理をする必要があるという立場に、私は立っている。

 これをしなければどうなるか・・・結論を書けば、いつまでたっても数をこなすことが出来ないまま、時間だけが過ぎていくことになる。仕事の効率を上げるためには、ある程度の負荷を与えなければならないことが多い。それがブラックだとすれば、手職に限っていえば、ブラックが悪いとはとても思えない。例えば・・・それは修行時のことではあるが、仕事を早く覚えるために、親方と弟子のような職制が一番効率が良いのではないか。700年も続いた制度はそれなりに合理性があると私は思っている。もちろん、ある程度の技術が身に付いたあとまで、長時間の仕事をという訳ではなく、あくまでも仕事の技術を習得する期間という前提での話なのだが。現代においては、この事について理解してくれる人が少ないように思う。今年の陶芸展のパネルディスカッションのテーマの一つは、身一つについて考えるだった。自分の手に技術を確立するまでは、それなりの厳しい徒弟教育(職業教育)が必要だと私は思っている。

 大学教育でも、修士や博士課程の人達は修業に近いような生活を送っている。企業でも一定以上の成果をあげようとすれば、やはり長い時間の拘束ということになるだろう。一日8時間一週5日間のみの仕事量で、画期的な成果を成し遂げることは難しいのではないか。特に競争相手がいる仕事の場合、人と同じ時間のみで対抗しようと考えるほうが無理があるように思う。陶芸の場合・・・個人経営のケースが多い。個人経営は、忙しい時には忙しく立ち働くことが原則だ。陶芸は人気商売でもある。お呼びがかかるということは次に繋がるということであり、次に繋がるっからこそ、仕事の継続ができるのだ。個人経営は自己責任が原則だから、作品に人気がある時には、無理しても仕事をするのが、一般的な陶芸家の矜持である。仕事をする時間を決められて、それ以上仕事をすることが悪と捉えられかねられない現代に、違和感を持つのは私だけなのだろうか。

 もちろん、私は全ての人に対していっているわけではない。1日8時間1週5時間で過ごしたいという人も、沢山いるだろう。中にはもっと少ない時間で済ませたいと思う人もいるに違いない。要は人生についてどう考えるかということなのだと思う。仕事を中心にした人生を希望する人もいるだろうし、日常を大切にしたい人も多いと思う。どちらがいいわけではなく、どちらが悪いわけでもない。陶芸家として考えれば、仕事中心にしたほうが実りが多いというだけのことだと思う。若いうちに厳しい修行を行い。年をとるに従って自分の好きな方向へ進んでゆく。己の欲するところを目指すためには、やはりある程度の技術がなければならないと考えるのが、陶芸家の一般的な考えだと私は思うのだが。。。アベレージというところに仕事を押し込んでしまえば、平均しか作れなくなるのではないか。平均は面白いのか。平均は素晴らしいのか。そんなことを考えている。

| 陶芸 | 17:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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天草大陶磁器展終了

 天草大陶磁器展が無事に終了した。今年は会期中晴天に恵まれ、過去最高の入場者を記録した。今年の陶磁器展は充実していたと思う。天気が良かったことで人出が多かった。天気が悪いからといって人出が悪いというわけでもないのだが、秋の晴天が6日間続いたのだからどこかに出かけようという思いは強くなる。おかげで一日5000人の入場者があった日があり、その日がいろいろな意味での頂点だった。おそらくこれから以降、今回のように天気に恵まれることはないと思われるほどに雲1つない日が会期中続いた。会期が終了した途端に天気が悪くなって、その点でも今年の陶芸展は恵まれていたと思う。

 私自身は今年の陶芸展ではいろいろな人と話をしたいと考えていて。うまく話せたところと今ひとつ足らなかった部分があるが、全体的に見ればスムーズに話をすることが出来たので合格点だと思う。どの人との話も楽しかった。今自分が考えていることと、私以外の人が考えていること。どれだけ共有出来るかは話してみなければわからない。話してみればそれぞれに違っているところなども存在していて、それも含めて充実した時間を持つことが出来た。今回も全てビデオに収めたので後から再度検証することができるので、それも楽しみにしている。

 珈琲については色々と準備ができていた。今年も大坊さんに来ていただいたので、今年も二日間で100名の人に大坊珈琲を楽しんでもらうことが出来た。一日50人 一人2杯。一日に100杯のコーヒーを出すことは、さぞや大変だったろうと思う。二日間で200杯。遠くは東京より飲みに来る人が居たりして、大坊珈琲の人気にあらためて驚かされた。キムさんも二日間で100杯のコーヒーを出してくれた。キムさんは女性から絶大な人気があり、女性陣がキムさんの入れた珈琲を楽しんでいたのが印象的だった。

 終わってみればあれもやりたかった、これもやりたかったと思うことばかりで、次の展開について思いを巡らし始めているが、天候や日程的に考えればこれ以上のことは出来ないかもしれないと思ったりしている。なんだかんだ言いながらも、今年の天草大陶磁器展の空の晴れ具合は、特筆モノで・・・こんな天気に恵まれることは二度とないような気もしている。はじめよければ全て良し、終わりよければすべてよし、天気良ければ全て良し・・・そんなことが積み重なって6日間だった。私だけの感想ではなく皆がそんな感慨を持った陶芸展だったように思う。疲れたけれど充実感も強い一週間だった。

| 陶芸 | 15:54 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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