丸尾焼窯元日記

熊本県天草市にある丸尾焼という窯元の窯元日記です。陶芸に興味のある方はチェックすると面白いかも・

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呼吸がすべてかも知れないと思う 2011年6月8日

 展示会の仕事を始める。今日は基本的なシュミレーションを行った。細部を再度検証しなければならないが、今私が考えていることが、ある程度作品化出来るのではないかという、目処が立ったと思う。面白いものに変化していくのか、素案の段階に留まるのかは今から次第だが、しっかりと煮詰めていけば・・・面白くできるのではないかと思っている。合同展は1人の個展と比べると気が楽だ。私1人で全てをと言う形ではないので、自分の思うような作品を作る事が出来る。私は今回の合同展は隠居への第一歩だと考えているので、そう言う意味でも実験的な試みを進めることが出来る。息子達と合同で展示会をすることは、実に楽しみなことだ。丸尾焼の将来に対しての答えを見る場所だと思う。それぞれは経験値こそ少ないが、陶芸の家に育ったわけだから、一般的な意味で言えば焼物を見て育っているという強みを持っている。彼らは丸尾焼の仕事を続けていくことは当然だが、同時に個としてどんな作品を作るのかも期待されている。これから先を考えると、工房形式の今のスタイルの丸尾焼を続けていくことは勿論だが、個人としてどんな作品を発表するかも問われてくる。集団としてのモノ作りに加えて、個人としてのモノ作りも、重要なことになってくると思う。

 私は、あまり個人の仕事を展開してこなかった。理由は丸尾焼というスタイルを作り上げることに時間を費やしてきたからだ。工房スタイルの仕事のあり方を作り上げるという仕事は、並大抵のことではなく。それに集中せざるを得なかったからだ。勿論個への思いは持ち続けていて、それが隠居の話へと繋がっている。集団でモノを作るスタイルは、ほぼ出来上がったと思うので・・・あとは個としてどういう展開を行うのかが、私の新しい仕事になると思う。今の私と子供達とでは、恐らく焼き物に対しての考え方がかなり違うと思う。私は既に個としての仕事に自分自身がどう向き合っていくのかについて、収斂する時期に来ている。モノ作りに限ることではないが・・・やはり人は拡散する時期と収斂する時期がなければならないと思う。宇宙の実相は呼吸することだから、思い切り吸い込んだら次は沢山吐き出さなければならない。拡散とは拡がることであり、前に進むことだ。収斂とは内に収縮することであり、一点に・・・つまりは自己にたちかえることだと思う。この繰り返しが宇宙の真相であり、人間の真相なのだと私は考えている。そう言う意味では息子達はまだ拡散途上であり、私は収斂の途上である。

 これから先私が陶芸とどう向き合っていくかの始発点が、今回の展示会だと書いた。私はその過程の中で、今までに私が積み上げてきた知識を再構築し始めている。その始まりのさらに始まりが可塑性と言うこと。何度も何度も考え抜いてみたのだが、やはり可塑性から始めなければならないという結論に達したのだ。そこを射抜いてしまえば、新しい平原が生まれてくる。あとはその地点を如何に深く掘り下げていくのかと言うことになる。もちろん・・・何故そう見えるようになったのかという事もある。この日記に何度も書いているが、私は陶芸家になりたいと陶芸を選んだ人間ではない。私は陶芸に選ばれた人間なのだ。そう思い至れば・・・私が粘土の見え方が違ってきた理由がはっきりしてくる。私に取っての次に為すべき事は、粘土の見え方の変化を礎にした作品を作ることになるのだと思う。丁度そのようなときに、今回の展示会を行うことにした。私は隠居と言う無為に住みたいと願い始めている。息子達は自分の住む平原を見つけるために、始動を始めている。今の工房は丁度そういう時期であり、世代の転換点でもある。彼らがどういうものを創るのか今で判らないが、私の意識の中ではそういうことが起こり始めている。

 私の頭の中では・・・上に書いたようなことが駆け巡っているが、実際の生活の現場では様々なイベントの企画が進行中だ。現在秋の企画3本を現在進行形で立案しているのだが、そのどれもが私が責任者なので、こっちはこっちで大変なことになっている。何とか凌いでいけている理由は、著在脳と潜在脳を使い分けているからで、それが出来なかったら恐らく今はパニック一歩手前という状態だろう。陶芸のこともある程度著在脳で考えたら、潜在脳に引き渡し熟成させる。陶芸展の企画もある程度著在脳で考えたら、潜在脳で熟成される。市民文化祭の脚本もある程度著在脳で考えたら潜在脳に渡す。そういう作業を繰り返している。面白いのは・・・何も考えていないようにしていながら、様々なことをジャッジ出来るようになっていることだ。責任者の一番重要な仕事はジャッジメントだと思うのだが、最近の私は最終的なジャッジメントを著在脳では行わない。潜在脳がジャッジしてくれるからだ。潜在脳の価値基準はどうやら未来のようで・・・それを行えば未来が開けるのかどうかと言うことが、選択基準になっている。私自身は何も判断しないように思っているが、潜在脳もやはり私自身であり・・・私なのだと思い始めている。
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| 創作日記 | 12:59 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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著在脳と潜在脳に委ねてみる。 2011年6月7日

 可塑性を主題とした作品を考え続けている。アイディアがいくつか頭の中を駆け巡って消えたりするが、暫くするとまた幾つも幾つもアイディアが浮かんでくる。古い人々が何を考えて粘土と向かい合ったのかに、思いを巡らしてみたり、その思いを現代に蘇らせるためにはどんな方法が一番なのかを考えたり、ある意味大変な作業なのだが、私にとっては実に楽しい時間でもある。私は何物なのかという問いかけをしながら、様々なアイディアが私の頭を過ぎりそして消えていく。最終的にどういう事をしたいのかを問い詰めながら、展示会へ向けた仕事のゴングが鳴ったところだ。私は今回の仕事に関しては、これから先の私の仕事の始点だと捉えている。始まりの段階でどれだけハッキリとしたものを提示出来るかどうか判らないが、兎に角考えることから始めなければならないと思う。最近の私は潜在と著在を上手く使い分けることが出来るようになっているので、その点では大分楽をさせて貰っていると思う。これは恐らく歳を取った成果なのだが・・・目の前にある仕事をこなしながらも、潜在的なところでは常にものごとを考えることが出来るようになってきたと思う。問い詰めるという言葉があるが、自分の潜在脳に、問い詰める作業を・・・ある程度ゆだねることが出来つつあるからだ。

 実際に・・・今、温めているアイディアをどういうやり方で作ろうかと考えているのだが、やり方に関しては著在脳で考え、潜在脳で深めるという作業をしている。著在脳は先鋭的になりすぎる傾向がある。考えるという行為自体が先鋭化なのだから、著在的に考えればどんどん一方に進化して、どんどん先鋭化してしまう。それに対して潜在脳はあまり先鋭化しない。漠然と物事を捉えるからだ。ただし潜在脳はしっかりとジャッジをしてくれるので、著在脳で考えたことを一旦潜在脳に渡した方が、物事は上手く進むことが多い。意味が判りにくいと思うが・・・考えに考えたあとには・・・眠ることが一番良い結果に繋がる場合が多い。つまり起きて考えると・・・その事ばかりを考えてしまい、俯瞰的な視点での論証が出来ない。一旦眠りに入って潜在意識下に物事の論証を委ねれば、起きたときには、どれが一番なのかが判っているということに近い感覚である。最近・・・私はこのやり方を多用していて、思いの外成果が上がっている。眉間に皺を寄せて考えるだけが思考ではないのだと・・・潜在脳は私に教えてくれているのかも知らない。

 可塑性について考えることはとても面白い。我々は粘土の可塑性を利用して色々なものを創っているのだが、可塑性については殆ど意識しないでものを創っている。論語読みの論語知らずのような話だが・・・実際に陶芸家と話していて、可塑性について議論をすることは殆ど無い。恐らくロクロを回すときに・・・いちいちそういうことを考えても仕方ないのかも知れないが、今回の私の仕事に関しては、やはりそこから始めなければならないと思う。どうそれを組み上げていくのかが、とても大きな課題で、この作品が上手く成立するかしないかは・・・これから先・・・私がどれだけの深さで、物事を考えることが出来るかに掛っている。勿論、私はこれ以降の作業が嫌いではないし、これ以降の作業自体も楽しみで仕方がないのだが、全体像をどう作り上げるのかが、難しくもあるし、醍醐味でもあると思う。アイディアが決まって、ロジックが出来上がると、次はプレゼンテーションだ。陶芸家にとってプレゼンテーションとは作品だと思う。どうすればそれがより素晴らしいプレゼンテーションになるのか・・・その件についても著在脳と潜在脳に委ねようと思う。

 ものを創ることは恣意的な行為だ。今の私のアイディアは粘土に関しては恣意的な作業を外郭的な範囲で行うこと。これが基本ラインとなっている。無軌道に動いていくことも考えないわけではないが、それでは恐らく調和という範疇に入らない。調和という範疇に入らない方が良いのか、範疇の中の作品に仕上げた方が良いのか。。。これも悩み所だ。恐らく今この文章を読んでも何を書いているのか判らないと思うのだが、そこを含めたところで・・・私自身はとても楽しんでいる。作品を成立させるためには潜在的な意味での確かな計算が必要だと思うし、そのためにはやはり計算された動きが必要なのかも知れないと思う。作品を作る上で一番難しいことは、私が今考えている可塑性についての展開が・・・陶芸をよく知っている人にも、陶芸を全く知らない人にも、率直に伝わらなければならないと言うことだろう。玄人だけが判る作品を作りたいわけではないからだ。今の私は、今まで正面から見てこなかった粘土の持つ可能性について、しっかりと作品化することが重要だと考えているのだから、そのあたりの計算はし尽くさなければならないのだと思っている。ものになるのかどうかを何度も何度も検証する時間が過ぎている。

| 創作日記 | 18:46 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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可塑性から始めたいと思う 2011年6月6日

 可塑性を辞書で繰ってみると以下のような記述がある。可塑性と塑性は同義語のようで、以下の記述があった。塑性・・・変形しやすい性質。外力を取り去っても歪(ひずみ)が残り、変形する性質。可塑性。50を過ぎたあたりから、粘土の見え方が違ってきている。粘土とは読んで字の如く、粘る土。。。陶芸という仕事は、この粘る土で形を作り、何かを表現したり用途に適したものを作ると言うことだと、私自身実に単純に思い込んで仕事を続けてきた。勿論、それが間違いではないのだが、最近粘らない土を使ったりすることが頻発していたことと、天草陶石で作品を作ったりすることも増えてきたので、陶芸という行為や粘土の見え方が、今までとは違ったものになりつつある。今回熊本の島田美術館で子供達との合同展を行うのだが、この展示会は私にとってもとても楽しみにしている展示会だ。と言うのも・・・私は若い頃からあまり歳を取らないうちに隠居したいと切望してきた。その話をすると多くの人が訝かしがったりするのだが、私としては体力があるうちに隠居して、経済活動から離れ、自分を確かめるための、仕事をしたいと考えているのだ。今回の合同展は一つには私の息子達が、実際の仕事に関してどれくらいの進捗を遂げているのかを知る機会だと思うし、もう一つは、私のかねてからの念願である、隠居後の仕事に対してのスタート地点になるのではないかと言う、私なりの思惑が働いているのだ。

 息子達がどんな作品を作ってくるのかは、楽しみではあるが・・・私のことではない。勿論、彼らが良い仕事を展開することが、私の隠居を早めるという因果は存在するが、それは直接的に私に関することではなく、工房の未来を占う意味での楽しみ事という側面が強い。血は汚いと言うが・・・息子達が立派な陶芸家としての片鱗を表せば、親である私は嬉しいに違いないが、それは直接的に私の問題ではない。私が隠居をのぞむ理由は、やはり・・・私自身が陶芸という仕事の本当を知りたいと思うからで、それを知ることが恐らくこれからの私の人生におけるはっきりとした標となると考えているからだ。私は陶芸という仕事を自ら見いだして、選択したわけではない。家業がこの仕事を営々と継続していたという因縁があり、私自身が直系の後継者ではないにも関わらずこの道を選択した。私が陶芸を選んだわけではないのだからと・・・私は普段から陶芸に選ばれた人間だと考えている。選ばれたとすれば・・・私はこの仕事に対して何らかの回答を見つけなければならない。自分で選んだ路ではなく。陶芸という主体に選ばれたとすれば、私は主体に対して回答する義務があると思っているのだ。

 勿論、私の息子達も広い意味で言えば陶芸から選ばれた人間なのかも知れないと思う。彼らもまた陶芸の家に生まれ、それ以外の職業に就く可能性はあったにも関わらず、私と同じ選択を行った。今の時代親と同じ職業に就くのはかなり珍しいことで、さらに、私の所は息子達3人全てが陶芸の仕事に従事している。彼らもまた、私と同じような感慨を持つのか、はたまた、漠然と家業として自らの生を受け入れるのか、その事に関してはまだ未知数なのだが、私は私なりに・・・土を使い物を作る仕事の正体を見つける作業に取りかかる時期だと考え始めている。今はその始まりの段階だが・・・私の中に常に存在する思いがある。それが可塑性と言うことなのだ。粘土は力を加えると加えられた力を素直に吸収し、加えられた力に従って変形する。そのことを古くから多くの人が知っていたから、粘土で様々なものが創られてきた。我々にとっては粘土はそういう性質のもので、何ら不可思議な素材ではないのだが、それは、私達が小さい頃から粘土細工などを行い、粘土の性質を知悉しているからなのではないか。粘る土・・・粘る土が存在して可塑性が高いことを知ったときに、人類は粘土をマテリアルとしてとても近いところに置き始めたのだと思う。

 プラスチックとは可塑性という意味だが、科学的に作られたプラスチックと自然の中に存在する、粘土という素材を比べてみても、私は粘土が劣っているとは思わない。プラスチックは確かに優れた性質を持っているとは思うが、何千年という時間軸に耐えられるような強靱な素材ではない。人類は粘土を使って製造したタイルで構築物を作り続けてきたが、プラスチックを用いて建物を造り続けたと言うことはない。この地球に無尽蔵に存在して、世界中の何処にでも存在する粘土という素材が・・・どれ程優れた素材なのかを考えてみれば、我々は科学という立ち処からもう一度離れて、天然の素材が持つ素晴らしい性質を、再度・・・見直さなければならないのではないかとさえ思う。これからの私の仕事は、可塑性の面白さや、火の力を加えることにより、物質的な安定が高まること。そういう粘土で作り火で焼いたモノの不可思議さを、問い直すことが出来ればと考えている。勿論、まだ思索は始まったばかりだし、思いも手も拙い事に満ちあふれた展示会になると思うのだが、そういった思いを込めた何かが出来ればと考えている。あと40日間の試行錯誤になると思うが・・・刺激的な旅をしたいと考えている。

| 創作日記 | 17:34 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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