喧噪の中で考えていること。。。

今日の熊日の夕刊にグランメッセの様子が掲載されていた。丸尾焼のブースの写真だったので・・・嬉しいのもあるが、少し恥ずかしい。長男は撮影されていることを知っていて、相当逃げていたらしいが、隅の方にしっかりと写っている。それだけ目立って人の入りが多かったのだと思えば、悪いことではない。

空の色が日増しに秋を感じさせる色に変わりつつある。このスナップは今しがた撮影したものだが、外に出てみても暑さが日増しに衰えていることを感じる。天気予報では残暑が厳しいとあるが・・・案外秋の訪れは早いのではないか。そう思えるほどに熱気が衰えている。心なしか木立が元気付いてきていると思うのは私だけだろうか。

この時間から日没までのパノラマが・・・8月のうちは美しかった。それは太陽でじりじりと照りつけられた大気が、暮れなずむ瞬間に・・・一瞬だけ我々にご褒美として与えてくれる絶景なのだと、そう思っていたのだが・・・今日あたりはそれほどの厳しさを感じない気候になりつつあり、次第に秋の気配を漂わせている。個人的には今から晩秋までの時の移ろいが大好きである。
ブログに写真を複数枚・・・載せることにしてから、文章の独立性が今一つだと感じている。文章を書く作業は白いか身の上の出来事だが、写真はものを言う存在だからかも知れない。百聞は一見にしかずというが、写真で撮影することによって、実際の状況がどうなのか、かなり正確に把握されるからだ。カメラを購入したことによって、一層そのことに拍車がかかり、1日に4枚、5枚と撮影した写真をアップロードしている。写真に文章が影響されるのは、仕方がないことだとは思うが、私が普段考えていることは写真を見ての感想ではなく、今という時代とどう向き合って、作品をどう昇華させるかと言うことだ。的外れなものを作っても誰も見向きもしてくれない。だからモノ作りは時代と真剣に向き合わなければならないと思う。
工芸はどこから来て・・・今どこにいて・・・今からどこへ向かおうとしているのか?この問に対して・・・どんな結論を提示出来るかが、工芸家の腕の見せ所だと思う。現代に対して対峙するのか、協調するのか、はたまた、否定するのかで、モノ作りのスタンスは全く違ったものになる。長く続く存在として考えれば、対峙しながらも協調するというスタンスが重要だ。今という時代を受け入れながら、しっかりとした作品を提示していく。それが理想的だと私は考えている。
居住空間一つとっても、現代は企画されてきている。水屋の幅は何十センチ。大きさがどれくらいで・・・棚の段数は何段・・・これより外れた作品は極端に需要が減ってくる。かってはお客さん用の器は6客買うのが一般的だったが、今は一客のコーヒーカップを6個・・・別々に買う人が多い。そっちのほうが楽しいというお客さんが増えているのだ。大振りの器よりも小振りの器のほうが売れるのは・・・それだけ食卓が小さくなり、沢山食べなくなったからだと思う。不要なものは置かないという意識も当然のことながら強くなっている。今書いたことは生活様式の変化だと思うが、実際の世界はもっと劇的に変わろうとしているように思えてならない。
私の所は・・・昭和30年代までは甕や土管を焼いていたところだ。コンクリート製品の普及によって、あっという間に今まで作っていたモノが売れなくなったという経験がある。需要が一気になくなり、それまで存在した製造技術そのものが崩壊してしまった。今の日本がそれと似ているというわけではないが、これだけ、デフレが続き円高になってくると、輸出産業も大変だろうが、外から入ってくるものと競合する、我々のような仕事も大きな影響が出てくる可能性がある。はてさてと思うのは・・・日本の製造業はどんどん生産を継続しにくい方向へ追いやられつつあると言うこと。工業も工芸も・・・とても難しい岐路に立っていると言えるのかも知れない。
そう言う課題を切り開くのも、結局の所・・・知恵だろう。手でものを作るという仕事を守り抜くために、今という時代を洞察して、自分なりの回答を出さなければならないと。。。。それがしなければならないことなのだと思っている。
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| 陶芸 | 18:36 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑