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丸尾焼窯元日記

熊本県天草市にある丸尾焼という窯元の窯元日記です。陶芸に興味のある方はチェックすると面白いかも・

2010年08月 | ARCHIVE-SELECT | 2010年10月

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癖と個性

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 我が家の猫を紹介します。この猫がそもそも私の所で猫を飼う発端になった「まる」です。工房の倉庫の下で4匹兄弟として生まれたのですが、結局「まる」だけが生き残りました。野良として生まれたのですが・・・生命力が強く。この子だけが生き残ったのです。途中何度も死線を彷徨いました。一度は獣医さんにも見放されかけたけど、奇跡の生還をした猫です。9匹の子供を産みました。現在8匹がが彼女の子供としてこの世に存在しています。

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 「まる」はあまり大きな猫ではありません。でもなかなか美人らしく・・・猫が好きな人からは美人美人と褒められます。もっとも人の家の猫を見てブスだブスだと猫を好きな人が言うことはないと思うので・・・まあ、まあ可愛い猫なのだと私は思うのですが・・・贔屓目というのがあるので、可愛く見えるのは仕方がありません。


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 こちらは息子の「ある」 あるは毎日みゃーみゃーと鳴き続ける猫です。かなり泣き虫なので・・・猫好きか猫嫌いかのリトマス試験紙のような役割を果たしています。あるの鳴き声を気にしない人は猫好き・・・気になる人は基本的には猫嫌い。かなり正確にわかります。ちなみに私は後者のほうに分類されています。

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 ちょっと澄まし顔系ですが・・・私がかなりカメラを寄せて撮影したので、かなり機嫌が悪い一コマです。確かに人間もあまりカメラを寄せすぎると不機嫌になります。猫だって犬だった同じですな。やんちゃだけど・・・喧嘩に弱い箱入りの「ある」でした。猫がいる工房は意外と少ないのですが・・・案外、迷惑もかけずに暮らしています。。。




 私の工房のように複数の人間で仕事をしているところは、担当が変わると作品の形が微妙に変わってくる。工房はおおむね10年でローテーションする、新しく入った人も10年間経てば、ほとんど独立するので、10年間で人が大体入れ替わるからだ。工房内では10年で、作り手が全く違う人になっていることになり、違う人が同じ種類のモノを作っているわけだから、作品も微妙に変化してくる。勿論、同じ人間が作っていても、微妙に違うラインだったりするが、同じ人間であれば、消すに消せない・・・その人の個性があるので、ああ、これは彼が作ったのだなと・・・誰が作ったのかおおよその見当がつく。昨日は同じモノを作り込むことの大切さを書いたが、今日は消すに消せない自分のラインがあると言うことについて書きたい。

 人には持って生まれた個性がある。私が描く一本の線と、別の誰かが描く一本の線は決して同じではない。一本の線が違うのだから、一個の轆轤で惹いた作品も、同じと言うことはない。私が作った轆轤の作品と、誰かが作った轆轤の作品とは、やはり、一本の線と同じく違うものになる。サインを考えて貰えれば、判りやすいと思うのだが、私が書いた、私のサインと・・・全く同じにサインを書ける人は、この世には存在しない。同じように私と全く同じラインで轆轤をひける人も、この世には二人といないわけで、動物は全てそうなのかも知れないが、今日は動物を論じるわけではないので割愛して、そこのところが・・・人間という生き物の凄いところなのだと思う。確かに、同じような・・・モノは出来ると思うのだが・・・全く同じモノは出来ないのだ。

 独自のモノが作れる人間だからと・・・修行などはしなくて、全く独自にモノを作れば、全く独創的なものが出来ると思えるのだが、ある意味・・・そうであるが、ある意味では全く見当違いの考えだったりする。陶芸に限って書いてみよう・・・陶芸という仕事は基本的には、手で物体を作る仕事だが、手に指令を出すのは脳である。形を認識する器官は目だ。手と脳と目・・・この三位が一体となることが出来なければ、成型という仕事は完成しない。 修業とは生業を修めると書く・・・陶芸でいう、修業期間は提示されたものを目で観て、脳でその形を判断し、手に指令を出して成型するという循環の中で、形を作ることを訓練する期間だ。修業期間は何を作るのか・・・常に次に作るべきものを提示されるが、自立して仕事を始めると、自分の頭の中で作品群を構築しなければならない。頭の中にある形を、現実の形に置き換えるためには、非常に率直で素直な手の力が要求される。

 焼き物の場合。古い作品を模倣することを写しと言い。奨励される事が多い。何故・・・奨励されるかと言えば、現実にある形を模倣することにより、現実に存在する形に・・・手と目が辿り着くための訓練だからだろう。目の前に存在する形を・・・同じように作ることは、技術習得のためには、何よりも重要な訓練だ。技術とはまず初めの段階は模倣する技術をさす。勿論、そう言いながらも同じものが出来るわけではなく、修業する間に様々な癖を取り除いて、同じモノ・・・(この場合は人の目で観て同じだと思える誤差の作品)を作る訓練が修行なのだと思う。

 癖は・・・個性ではない。今の時代は長い期間の修業をすることが少なく、癖を個性だとして尊重する空気がある。色々な考え方はあるだろうが、私は癖を個性だと思わない。癖は修行の当初に消すべきものだと私は考えている。俳優に聞いた話だが・・・演技で一番難しいことの一つが、普通に歩くことだと聞いた。癖をもって歩くことが演技的には容易だろうが、普通に歩くことはとても難しい事だと聞いた。焼き物も同じようなことが言えると思う・・・普通に轆轤をひくことが・・・本当はもっとも難しく、その人なりの癖で・・・轆轤をひくことは簡単だと思う。普通に轆轤をひけるようになるために、膨大な時間をかけて訓練をする。そうやって初めて自分の形を作れるようになるのではないか。そして初めて自分のラインを見極める。さらに、自分の形を見つけるために一生をかける。陶芸とはそう言う仕事なのだと私は考えている。

 20歳で修業を始めると、一人前になるまでに10年。自分のラインを見つけるまでに更に10年。それで40歳。それからの20年が勝負所になってくる。陶芸とは本質的にはそう言う仕事なのだと思う。個性個性と癖を放置して伸び代を無くすようなことが、行われているような気がしてならない。癖は癖・・・癖は個性ではない。
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