文化文化どんどんオープニングフェスティバル終了

今年のテーマは昭和30年代後半から、現在までを一つの流れとしておってみた。昭和38年にはまだ天草は天草5橋が掛っていなかった。どこへ行くにも船を利用せねばならず・・・島から出るためには船に乗らなければならない。その頃の船の別れはテープをもっての別れだったが・・・別れの切なさは今からとは比べものにならないくらいものだった。

この写真は今年きらめき賞を受賞した人の舞台。三味線のお師匠さんの希望で、少し無理があったが舞台を設定した。かなり力が入った股旅の舞台だった。こういう出し物も比較的歳を取った人の多い舞台では楽しんで貰える。

今年のテーマの一つ・・・それは天草の人の忍耐強さ。。。その象徴として大関栃光に焦点をあてた。栃光は天草の人の気質を一番持ち合わせた人だと思う。勿論大関として一度も待ったをしなかったことは立派だが・・・それに加えて努力に努力を重ねたことの方が惹かれる。勝ち負けではない・・・見事な生き方がそこにあると思う。写真は相撲甚句の会による、大関栃光の甚句を詠うシーン。

栃光が大関に昇進した時は・・・天草中で盛大なお祝いがあってそうだ。本渡南小学校では栃光を迎えて栃光の歌を歌ったという。今回はそのシーンを再現してみた。後ろの白黒の写真は、実際の映像。写真を見ればこの時如何に天草の人が栃光を誇りに思っていたかが伺える。

人は自分が生活しているところが・・・世界の中心だと思っている・・・と私は考えている。確かに天草は日本の中心より遠く離れているし、まして・・・世界の中心からみれば・・・とんでも無いところにある。小さい頃の私は、もっと日本の中心で生まれたかったと思ったりしたが、今は、この島に生まれて良かったと思っている。見渡せば・・・この島には必要なものが何でも揃っているからだ。美しい海や豊かな緑・・・それから気持ちの良い人々。。。これまでも、そしてこれからも素晴らしい場所であり続けたいと思う。
文化ぶんかどんどん・・・市民芸術祭オープニングイベント。。。無事終了した。5月からずっと継続してきたことなので、本当にホッとしている。8月はハイヤ祭り、9月が文化文化どんどんオープニングフェスティバル。11月が天草大陶磁器展。花しょうぶ祭りを含めると・・・3つ目の大きな舞台を無事に終えることが出来た。あとは天草大陶磁器展を残すのみという状況になった。今年は能の舞台も控えているので・・・気を抜かないでしっかりと務めを果たしていきたいと考えている。
天草のことを書いたので、天草人の特徴を書いてみたい。天草の人は実直で真面目な人が多い。何故・・・そうなのかを考えてみたが、おそらく、この島は実直で真面目にしていると食べることが出来たのではないかと思う。よその土地から天草に移り住んだ人に・・・天草はとても豊かなところだと言われる。決して、金銭的な意味ではなく、おそらく誰もが一生懸命働けば、最低限の暮らしが出来るだけの自然が溢れているのだろう。食べることこそが一番重要な命題だった時代においては、自然の恵みを率直に受け入れて生活が成り立った場所は、楽園だったのではないかと私は思う。天草はまさしくそう言う場所なのだ。
天草の人が一番嫌う言葉に狡い(こすい)と言う言葉がある。人から『こすかー』と言われると天草の人は、体から力が抜けるくらいの勢いで・・・ガッカリする。この島では人から狡いと言われることが、もっとも屈辱的な言葉になるのだ。自分の利益のために・・・人をおとしめることを極端に嫌う。今は橋が架かって九州本渡と陸続きになったが、天草は今でも島であり・・・島の中での循環も確実に残っている。島の中は運命共同体。そう言った認識があったのかも知れないと思う。狡いことは・・・運命共同体の中では一番迷惑なことで・・・だから、狡いことが忌み嫌われたのかも知れない。
天草へ移住してきた人と話をしていたときに、何故天草だったのかと聞いたことがある。彼は暫く考えたあとに『ちょうど良い大きさだった』と答えた。私はその時に天草くらいの大きさが・・・人が人として住むのに丁度良いのだと思った。コミュニティが完全に崩壊するわけではなく、人が普通に暮らしを立てて行けて、狡いことがない島・・・そんな島を目指すことが出来れば、素晴らしい場所になると思ったのである。
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| 雑記 | 17:41 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑