高浜で考えたこと その5 2011年7月31日
高浜で考えたことも5回目となった。今回はプロローグとエピローグを含め10回で終わろうと考えているので、今日が実質的には6回目。今日からは少し視点を変えて書いてみたいと思う。プロローグとして天草は遠いと言うことを書いた。このことは今や誰でも知っている天草共通の課題だ。プロローグには少し書いたが、天草は遠いということをどう解決するかという課題について、今日は書いてみたい。この問題の解決に関しても私は過去の天草にヒントがあると感じている。天草は陸路だけを考えると遠いところだ。高浜までだと熊本からでも3時間半くらいの時間が掛かるのではないか。この課題を江戸時代の人は海路を使うことによって解決していたのではないか。上田陶石をトラックも橋も存在しないときに陸路で運ぶのは困難である。船という運搬手段が存在していたからこそ、天草陶石を運ぶことが出来た。実際に採石場から陶石を掘り出し、陶石を生成するところまでの運搬に相当苦労したようだが、一旦、素選りが済んでしまい港まで持って行けば、あとは海の道を通じて塩田まで運ぶこと事態は容易だったという。天草は海の道で各地とつながっている。陶石は鹿児島にも送られているし、長崎との交流も海伝いに頻繁である。
江戸時代には天草の人は西海岸の地域の人は長崎に出稼ぎに出たり、勉強しに行っていたし、今でも富岡の人たちは長崎に飲みに行ったりすることが多いという話を聞く。牛深方面は鹿児島に出て行く人が多く、鹿児島の高校に進学する人も多い。私が住んでいる本渡というところは明治維新に熊本県に天草がなって以降急速に発展したところで、熊本県との関係が天草では最も近いところだ。高浜を中心軸にしてコンパスで円を描いても、鹿児島と長崎それから熊本はほぼ同じくらいの距離で、遠近を陸路だけに限定してしまえば、とても地の利の悪いところになってしまう。しかし、見方を変えて地の利の悪さをあらためて地の利と再定義すると、高浜は3法から等距離に存在しているので、お客さんを引き込むことが出来れば、3つの県の人に対して勝負をすることの出来る場所だとも言えそうである。鹿児島・天草・長崎の三県架橋の話があるが、橋を架ける前にしっかりとした交通体系としての海の道を作れば、通過型と滞在型を兼ねた観光が出来るのではないだろうか。陸路で3時間半は今の日本人にはかなり難しい話だ。陸路も重要だと思うが、海の道をどう作り上げるかは単に高浜だけではなく、天草全体の課題だと思う。
日本人は徳川幕府により海を消された時期がある。そのため海上交通網が貿易以外に発達していないのだが、近海に限定した海上交易はしっかりと生きていた。牛深ハイヤ節が全国200カ所に及ぶ地域に広がった理由は、近海の交易が主流だったからで、ある意味ではこの国のかたちが作った現象だとも言える。海の旅はそうそう急ぐこともないし、時間がゆったりと流れるという移動手段でもあるので、天草の観光を考える上では有効な方法だと思う。もう一つ指摘しておきたいのは、地方のメイン都市から3時間半かかるところで、過疎化や限界集落化の起きていないところをリサーチすることだ。おそらくそんなところは全国でも数えるくらいしか存在しないだろうが、それでもいくつかはあるはずで、そういうところを血眼になって探し出す必要があると思う。今のような時代に雄々しく存在しているところは、必ずなにがしかの基幹産業が存在しているはずだ。都会から遠く離れているにもかかわらず、反映を続けているところには必ず大きなヒントが潜んでいるはずだ。そこが何処なのかは私には判らないが、統計資料などを基に調べると必ずそういう場所があると思う。
高浜が都会から遠く離れていることについては疑いようがないが、同じような条件下でしっかりと生活が成り立っているところもあるのではないか。そういう場所の地域戦略がどういうことなのかもしっかりとリサーチする必要があると思う。出来れば熊本市と同じくらいの町から時間的な距離が3時間半くらいのところで、町が豊かに動いているところを知れば、そこは天草の高浜にとって先生になり得ると思う。同じくらいの条件下で・・・という範囲でリサーチしなければ意味がない。そういうところを探し出して、そこをしっかりと研究して、これからの町作りの指針とすることが望ましいことだと私は思う。どんな状況になってもこの国すべてが滅んでしまうことはないだろう。どこかに今の高浜にとって最適解の答えを作り上げつつあるところが存在しているはずだ。完全に成功しているところである必要はないと思う。ただ導となるようなところがあれば、そこを一つのイメージとして高浜の人たちが将来のビジョンを考えることが出来る。地の利の悪さを地の利に変えることと、全国的視座で観た成功へ進みつつあるところをリサーチすること。この二つのことがとても重要だと思うのである。
全く条件の異なるところへいっても私はあまり意味がないと考えている。都会から近いところには近いという地の利があり、そのことは高浜とは全く違う条件だと思う。同じような立地でものを考えることが地域を考えるときの決め手になる。そういう意味でも高浜の距離感と・・・同じ条件下で進んでいるところを知ることはとても重要なことだと私は考えている。
江戸時代には天草の人は西海岸の地域の人は長崎に出稼ぎに出たり、勉強しに行っていたし、今でも富岡の人たちは長崎に飲みに行ったりすることが多いという話を聞く。牛深方面は鹿児島に出て行く人が多く、鹿児島の高校に進学する人も多い。私が住んでいる本渡というところは明治維新に熊本県に天草がなって以降急速に発展したところで、熊本県との関係が天草では最も近いところだ。高浜を中心軸にしてコンパスで円を描いても、鹿児島と長崎それから熊本はほぼ同じくらいの距離で、遠近を陸路だけに限定してしまえば、とても地の利の悪いところになってしまう。しかし、見方を変えて地の利の悪さをあらためて地の利と再定義すると、高浜は3法から等距離に存在しているので、お客さんを引き込むことが出来れば、3つの県の人に対して勝負をすることの出来る場所だとも言えそうである。鹿児島・天草・長崎の三県架橋の話があるが、橋を架ける前にしっかりとした交通体系としての海の道を作れば、通過型と滞在型を兼ねた観光が出来るのではないだろうか。陸路で3時間半は今の日本人にはかなり難しい話だ。陸路も重要だと思うが、海の道をどう作り上げるかは単に高浜だけではなく、天草全体の課題だと思う。
日本人は徳川幕府により海を消された時期がある。そのため海上交通網が貿易以外に発達していないのだが、近海に限定した海上交易はしっかりと生きていた。牛深ハイヤ節が全国200カ所に及ぶ地域に広がった理由は、近海の交易が主流だったからで、ある意味ではこの国のかたちが作った現象だとも言える。海の旅はそうそう急ぐこともないし、時間がゆったりと流れるという移動手段でもあるので、天草の観光を考える上では有効な方法だと思う。もう一つ指摘しておきたいのは、地方のメイン都市から3時間半かかるところで、過疎化や限界集落化の起きていないところをリサーチすることだ。おそらくそんなところは全国でも数えるくらいしか存在しないだろうが、それでもいくつかはあるはずで、そういうところを血眼になって探し出す必要があると思う。今のような時代に雄々しく存在しているところは、必ずなにがしかの基幹産業が存在しているはずだ。都会から遠く離れているにもかかわらず、反映を続けているところには必ず大きなヒントが潜んでいるはずだ。そこが何処なのかは私には判らないが、統計資料などを基に調べると必ずそういう場所があると思う。
高浜が都会から遠く離れていることについては疑いようがないが、同じような条件下でしっかりと生活が成り立っているところもあるのではないか。そういう場所の地域戦略がどういうことなのかもしっかりとリサーチする必要があると思う。出来れば熊本市と同じくらいの町から時間的な距離が3時間半くらいのところで、町が豊かに動いているところを知れば、そこは天草の高浜にとって先生になり得ると思う。同じくらいの条件下で・・・という範囲でリサーチしなければ意味がない。そういうところを探し出して、そこをしっかりと研究して、これからの町作りの指針とすることが望ましいことだと私は思う。どんな状況になってもこの国すべてが滅んでしまうことはないだろう。どこかに今の高浜にとって最適解の答えを作り上げつつあるところが存在しているはずだ。完全に成功しているところである必要はないと思う。ただ導となるようなところがあれば、そこを一つのイメージとして高浜の人たちが将来のビジョンを考えることが出来る。地の利の悪さを地の利に変えることと、全国的視座で観た成功へ進みつつあるところをリサーチすること。この二つのことがとても重要だと思うのである。
全く条件の異なるところへいっても私はあまり意味がないと考えている。都会から近いところには近いという地の利があり、そのことは高浜とは全く違う条件だと思う。同じような立地でものを考えることが地域を考えるときの決め手になる。そういう意味でも高浜の距離感と・・・同じ条件下で進んでいるところを知ることはとても重要なことだと私は考えている。
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