やっと日記が追いつく 2012年3月30日
月曜日には仕事が待っているからだ。
日記に関しては、この日記のタイトルは窯元日記となっている。窯元は私にとっては職業で、この仕事は私のアイデンティとなっている。とすれば窯元という名称が付いた以上、この仕事は職業的な意味合いを強く保ちながら書いていると言うことになる。勿論、陶芸以外のことも書いてはいるが、基本的には陶芸のことを中心とした内容になっていると思う。電脳のことを書いたり、仕事の周辺のことを書いたりすることもあるが、その全ても自分にとっては仕事の範疇に含まれると考えている。そう言う意味ではこの日記もプロフェッショナルの日記だと言えるだろう。私は文筆家ではないし、著作業でもないので、文章の内容に関しては保証するわけではないが、窯元という仕事がどういった行為で成り立っているのかについては、この日記を読んで頂ければ、大体のことは把握出来ると思う。窯元という仕事は端で見ているよりも、実に多くの種類の仕事を展開しなければならないことが良く判ると思う。陶芸という仕事はある意味ではオールマイティでなければならないと言うことが実感出来るはずだ。土を掘り出し・・・焼成して、作品として販売する。何もないところから作品を創り出す仕事が陶芸という行為なのだと思う。
今回、窯元日記が滞った理由の一つが、私自身これから先の仕事の展開を考えていたからだ。工房には若い人が多いのだが、彼らもこの数年でかなりの力を付けてきた。最近は彼らの作る作品に私が眼を細めることも多い。去年と比べても力が付いてきていることがはっきり判るくらいなので、これから先どういった展開をしていけばいいのかについて、長い時間を掛けて考えていた。システムについて考えを深めたのも製造の仕組みをどう作り上げるかを考えたからだし、それを如何にしてリアルタイムで組み上げるかについて考えたのも、彼らの生産性を高めたいと考えたからだ。もう一息で次の段階に進むことが出来ると言う思いが私の中に強くあり、工房自体の魅力をもう一段高めるためには、どうあるべきなのかについてもさんざん頭を回転させた。まだまだ結論は出ていないので、これからも暫くは考える事を辞めるわけにはいきそうもない。結局、こういったことの繰り返しが仕事という者なのかも知れないが、絶え間なく考察を深め、次の展開を模索することがプロフェッショナルだと改めて感じている。
窯元日記は3年間を一つの区切りとして考えている。石の上にも3年。公開することを前提として書いているので、時々まどろっこしい表現になる場合がある。本当はもっと鬩いだようなことを思っている時も多いのだが、なかなか書くことが出来なかったりする。公開する文章と私的な文章は基本的には全く違ったものになる。そう言う意味ではもっと本質的な文章を書きたいという欲求も強くなりつつある。しかし、考えてみれば・・・何時も本心だけで生きているとは限らない。出来るだけの本音と時々の嘘の羅列が人生なのかも知れない。そう考えれば窯元日記の攻め義の弱さも許すことが出来るのかも知れない。陶芸家は基本的にはあまり嘘はつかない。嘘は人につくのではなく自分につくことになるからだ。嘘の自分が増えていくと本当の作品を作れなくなる。だから私自身はあまり嘘をつかないように心掛けている。窯元日記は嘘を書いているというよりも、むしろ突っ込みが弱いと言うことが私の率直な思いだ。例えば人の作品を評価する時に詰まらないモノを詰まらないとは書きがたい。面白みの欠片もない作品についても単刀直入には書きにくい。そういった諸々があるので鬩ぎきっていないと思うのだろう。公開を前提とする以上致し方ないことなのかも知れない。
日記に関しては、この日記のタイトルは窯元日記となっている。窯元は私にとっては職業で、この仕事は私のアイデンティとなっている。とすれば窯元という名称が付いた以上、この仕事は職業的な意味合いを強く保ちながら書いていると言うことになる。勿論、陶芸以外のことも書いてはいるが、基本的には陶芸のことを中心とした内容になっていると思う。電脳のことを書いたり、仕事の周辺のことを書いたりすることもあるが、その全ても自分にとっては仕事の範疇に含まれると考えている。そう言う意味ではこの日記もプロフェッショナルの日記だと言えるだろう。私は文筆家ではないし、著作業でもないので、文章の内容に関しては保証するわけではないが、窯元という仕事がどういった行為で成り立っているのかについては、この日記を読んで頂ければ、大体のことは把握出来ると思う。窯元という仕事は端で見ているよりも、実に多くの種類の仕事を展開しなければならないことが良く判ると思う。陶芸という仕事はある意味ではオールマイティでなければならないと言うことが実感出来るはずだ。土を掘り出し・・・焼成して、作品として販売する。何もないところから作品を創り出す仕事が陶芸という行為なのだと思う。
今回、窯元日記が滞った理由の一つが、私自身これから先の仕事の展開を考えていたからだ。工房には若い人が多いのだが、彼らもこの数年でかなりの力を付けてきた。最近は彼らの作る作品に私が眼を細めることも多い。去年と比べても力が付いてきていることがはっきり判るくらいなので、これから先どういった展開をしていけばいいのかについて、長い時間を掛けて考えていた。システムについて考えを深めたのも製造の仕組みをどう作り上げるかを考えたからだし、それを如何にしてリアルタイムで組み上げるかについて考えたのも、彼らの生産性を高めたいと考えたからだ。もう一息で次の段階に進むことが出来ると言う思いが私の中に強くあり、工房自体の魅力をもう一段高めるためには、どうあるべきなのかについてもさんざん頭を回転させた。まだまだ結論は出ていないので、これからも暫くは考える事を辞めるわけにはいきそうもない。結局、こういったことの繰り返しが仕事という者なのかも知れないが、絶え間なく考察を深め、次の展開を模索することがプロフェッショナルだと改めて感じている。
窯元日記は3年間を一つの区切りとして考えている。石の上にも3年。公開することを前提として書いているので、時々まどろっこしい表現になる場合がある。本当はもっと鬩いだようなことを思っている時も多いのだが、なかなか書くことが出来なかったりする。公開する文章と私的な文章は基本的には全く違ったものになる。そう言う意味ではもっと本質的な文章を書きたいという欲求も強くなりつつある。しかし、考えてみれば・・・何時も本心だけで生きているとは限らない。出来るだけの本音と時々の嘘の羅列が人生なのかも知れない。そう考えれば窯元日記の攻め義の弱さも許すことが出来るのかも知れない。陶芸家は基本的にはあまり嘘はつかない。嘘は人につくのではなく自分につくことになるからだ。嘘の自分が増えていくと本当の作品を作れなくなる。だから私自身はあまり嘘をつかないように心掛けている。窯元日記は嘘を書いているというよりも、むしろ突っ込みが弱いと言うことが私の率直な思いだ。例えば人の作品を評価する時に詰まらないモノを詰まらないとは書きがたい。面白みの欠片もない作品についても単刀直入には書きにくい。そういった諸々があるので鬩ぎきっていないと思うのだろう。公開を前提とする以上致し方ないことなのかも知れない。
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