ジャンヌダルクと天草四郎 2011年7月11日
熊本の日仏協会に天草四郎の話をしてくれと言うことで呼ばれた。能の師匠である狩野鵬師が来年の五月にフランスでジャンヌダルクを演じることになっており、ジャンヌダルクと天草四郎を対比させて話をするという趣向だった。何となく判ったような判らないような内容なのだが、古い知り合いからの頼みだったので、引き受けたのだ。実は日比野さんとの縁で野田秀樹さんに私は3度ほど会ったことがある。その当時私は色々な人に天草四郎を書いて欲しいと思っていた時期だったので、野田さんに天草四郎を書いて貰えないかと・・・不躾にも話をしたことがある。彼は私の話を聞いて暫くうーんと言ったあと、天草四郎は書かないと思うと言った。そのあとに言葉を繋いで・・・私は天草四郎よりも今の段階では、ジャンヌダルクに惹かれると言ったのだ。ジャンヌダルクも天草四郎もどちらも悲劇的な人生を駆け抜けた人だ。自らの信じることに命をかけて取り組んだところも似ている。しかし、違っているところもあって、ジャンヌダルクは後に教会に認められて、今では聖者に列せられている。しかし、天草四郎はそう言う意味では名誉が回復されているわけではなく、今でも天草島原の乱を起こした張本人という扱いを受けている。天草四郎が今でも演劇などに於いて現世に害悪を与える首謀者として扱われることが多いのも、天草四郎が今でも反体制のシンボルとしての側面があるからだと思う。
天草島原の乱は徳川政権にとってとても許すことの出来ない動乱だった。一気に荷担した人間が1人も生き残っていないという事実が、如何に天草島原の乱が時の政権を脅かす出来事だったかを証明している。幕府が何を怖れたかと言えば、それは天草の乱に連動した形で様々なところで同時多発的に、同じような一気が多発することだった。もし様々な場所で同時多発的に同じような動乱が起これば幕府は転覆された可能性がある。そう考えれば天草四郎は決して許されるわけはなく、そのこと自体は数百年経ったあとも変わらない。天草島原の乱がそれ以外のところに伝播したと考えてみる。例えば九州で3カ所四国で2カ所。。。本州で5カ所・・・住民蜂起型の一揆が起こったかも知れないと考えれば、当時の幕府がどんなことがあっても天草島原の乱を封じ込めなければならなかったし、同じ理由でその動乱に加わった人間をただの1人でも生き残らすわけにはいかなかったと、私は考えている。キリシタンの一気だと言われているが、私はむしろ徳川政権自体に不満を抱く武士達が背景に存在して、幕府の転覆を謀った動乱だったのではないかと思う。
天草四郎は今でもなお悲劇的な主人公の1人ではあるが、彼は今でも反体制側に超然として立っている。義経もまた最後には追われて追い込まれるという人生を辿るが、それでも出自はただしく、ある意味では正当性を持っているとも言える。判官という地位が象徴するように、彼は最初こそ反体制側に与していたが、そのうち源という体制の人になり、最後は対立して追い落とされるという生き方をした人だ。勿論、天草四郎にもそういう落し種伝説は有りはするが、それは正当性のある話ではなく、あくまでも後世の人の物語りの中で作られた話である。つまり、天草四郎は最初から反体制であり、今も反体制である。ジャンヌダルクは悲惨とも言えるような戦いを繰り広げたが、今は聖人として扱われている。天草四郎は今でも罪人のままでそのこと自体は今でも覆っていない。天草四郎を色々と調べてみると、清くただしいイメージの天草四郎と、亡くなった後の恨みを持つ存在としての天草四郎のイメージが混在している。この恨みを持つという根本イメージ形成には、今でも許されない存在としての四郎が介在しているのかも知れない。
昨日の話は狩野鵬師が来年の5月にフランスでジャンヌダルク・・・新作能を演ずることから始まった話だ。今はまだ脚本というか最初の段階の素案が出来ているところだそうだが、これから様々な試行錯誤を繰り返しながら、フランス公演へ向けた取り組みが始まるのだという。翻訳した能ではなく完全に日本の言葉でのうという形式そのもので演じると言うことなので、どういうものになるのか非常に興味のあるところだ。私は昨日・・・能という演劇はそこに本人が降り立ってくるという気配が濃厚にあると話をした。そこには4つの柱しか存在していないわけで、しかもさほど広くない場所なのだが、良い能を観たときには、そこに主人公が降りてきたように感じることが多い。勿論な真美の人間が行うことなのではあるが、能が長い時間に耐えて今でも脈々とした物を持ち合わせている根源が、ここにあるような気がしてならない。来年の五月にフランスの舞台の上にジャンヌダルクが舞い降りるような、そんなモノが出来れば素晴らしいと思う。そして、いつの日にか天草四郎の舞台を天草で出来ればと考えた次第である。
天草島原の乱は徳川政権にとってとても許すことの出来ない動乱だった。一気に荷担した人間が1人も生き残っていないという事実が、如何に天草島原の乱が時の政権を脅かす出来事だったかを証明している。幕府が何を怖れたかと言えば、それは天草の乱に連動した形で様々なところで同時多発的に、同じような一気が多発することだった。もし様々な場所で同時多発的に同じような動乱が起これば幕府は転覆された可能性がある。そう考えれば天草四郎は決して許されるわけはなく、そのこと自体は数百年経ったあとも変わらない。天草島原の乱がそれ以外のところに伝播したと考えてみる。例えば九州で3カ所四国で2カ所。。。本州で5カ所・・・住民蜂起型の一揆が起こったかも知れないと考えれば、当時の幕府がどんなことがあっても天草島原の乱を封じ込めなければならなかったし、同じ理由でその動乱に加わった人間をただの1人でも生き残らすわけにはいかなかったと、私は考えている。キリシタンの一気だと言われているが、私はむしろ徳川政権自体に不満を抱く武士達が背景に存在して、幕府の転覆を謀った動乱だったのではないかと思う。
天草四郎は今でもなお悲劇的な主人公の1人ではあるが、彼は今でも反体制側に超然として立っている。義経もまた最後には追われて追い込まれるという人生を辿るが、それでも出自はただしく、ある意味では正当性を持っているとも言える。判官という地位が象徴するように、彼は最初こそ反体制側に与していたが、そのうち源という体制の人になり、最後は対立して追い落とされるという生き方をした人だ。勿論、天草四郎にもそういう落し種伝説は有りはするが、それは正当性のある話ではなく、あくまでも後世の人の物語りの中で作られた話である。つまり、天草四郎は最初から反体制であり、今も反体制である。ジャンヌダルクは悲惨とも言えるような戦いを繰り広げたが、今は聖人として扱われている。天草四郎は今でも罪人のままでそのこと自体は今でも覆っていない。天草四郎を色々と調べてみると、清くただしいイメージの天草四郎と、亡くなった後の恨みを持つ存在としての天草四郎のイメージが混在している。この恨みを持つという根本イメージ形成には、今でも許されない存在としての四郎が介在しているのかも知れない。
昨日の話は狩野鵬師が来年の5月にフランスでジャンヌダルク・・・新作能を演ずることから始まった話だ。今はまだ脚本というか最初の段階の素案が出来ているところだそうだが、これから様々な試行錯誤を繰り返しながら、フランス公演へ向けた取り組みが始まるのだという。翻訳した能ではなく完全に日本の言葉でのうという形式そのもので演じると言うことなので、どういうものになるのか非常に興味のあるところだ。私は昨日・・・能という演劇はそこに本人が降り立ってくるという気配が濃厚にあると話をした。そこには4つの柱しか存在していないわけで、しかもさほど広くない場所なのだが、良い能を観たときには、そこに主人公が降りてきたように感じることが多い。勿論な真美の人間が行うことなのではあるが、能が長い時間に耐えて今でも脈々とした物を持ち合わせている根源が、ここにあるような気がしてならない。来年の五月にフランスの舞台の上にジャンヌダルクが舞い降りるような、そんなモノが出来れば素晴らしいと思う。そして、いつの日にか天草四郎の舞台を天草で出来ればと考えた次第である。
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| 雑記 | 18:09 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑
いつも楽しみに読ませていただいてます。
天草で天草四郎の舞台。確かにおもしろそうですね。
| amausa46 | 2011/07/13 10:54 | URL |