丸尾焼窯元日記

熊本県天草市にある丸尾焼という窯元の窯元日記です。陶芸に興味のある方はチェックすると面白いかも・

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狩野琇鵬師・・・逝く。

 昨日、狩野琇鵬師が亡くなった。行年79歳。我が能楽の師匠・・・狩野了一師の父君。かれこれ20年近くのお付き合いだった。お付き合いというのも本当は憚られる。ひょうんなことから狩野了一師に、謡と仕舞いの稽古を付けていただくことになった。稽古を付けてもらうようになった理由は、稽古を付けて貰う人が少なかったからだ。了一師に天草にまで来ていただくわけだから、ある程度の人間がいないと失礼でしょう・・・ということで、どういうわけか、私も仕舞いと謡を習うことになったのだ。もっとも私は最低の弟子で・・・ほとんどその場限りの稽古だった、弟子として何の進展もなく、一体全体何を習ったのか・・・今思い出しても赤面するような状態が長く続いた。毎年の発表会が一番の苦痛で、そのたびに父である狩野琇鵬師より、慰めの言葉をいただいた・・・その中で「仕舞いや謡は身嗜みですから」という言葉が今でも耳に焼き付いている。

 身嗜みという言葉は最近は死語になりつつあるが、人として生きていく上で本来はとても重要なことではないか。能楽はすべての歌舞謡曲の最上位にあるもの。。。それを身につければ基本的にはあらゆる歌舞謡曲の、所作を理解することが出来る。基を知ることが一番重要であるという考えが、身嗜みに通じているのだと思う。もちろん能楽という行為は、ありとあらゆる舞楽の中で一番過酷な修練が必要である。そんな高みに私如きが行けるわけないので・・・素謡や仕舞いの稽古をつけて貰い、深淵の一端を垣間見ることにより、身嗜みとするのが、私なりにとらえた・・・嗜みだと思っている。能楽師は総じて身嗜みが整っているというのは、当たり前の話で・・・身嗜みの本山のようなものだろう。能楽の世界は身一つともいわれる。ともすれば舞台の設えまでも自分たちで行うのだから、日頃がとても重要になるのだ。

 能楽師の頭の中には200曲の楽曲が入っているといわれている。幼少の頃に頭にたたき込めば、人はそこまで達することが出来る。了一師に聞いたことがあるが、演じる1日前に謡い本でさらえば・・・ほとんど思い出すことが出来るのだそうだ。普段から演じられる演目は頭に入っていることはあるだろうが、あまり演じられることのないものは・・・大変だろうと思いながら・・・話を聞いた記憶がある。能楽の世界にはとんでもない演じ手が存在する。世阿弥はもちろんのこと、歴史に残る演じ手が綺羅星のように存在する。そのような人たちに身一つで対峙するにはどういう覚悟が必要なのだろう。能楽師に畏敬の念を持つ理由はこのあたりにあるのかも知れない。

 能楽師は身一つと書いた。私は身一つこそが・・・最も強い形態なのではないかと考えている。能楽が長く続いてきた理由の一つは、身一つ故だと思う。それは時代を超えた真実ではないのか。ものを作る人間は社会に対してものを供給するということで結びついている。つまり、もので社会との関係性が成り立っているわけだ。対して能楽師は身一つで社会との関係が成り立っている。身一つを獲得するために物心つく前から修行が始まる。ある程度の年齢になると一通りのことが出来るようになっていて、道を究めるための舞台が整っている。道具立てが良いとか、持ち物が良いというわけでもなく・・・身一つで身を立てる環境が準備されているわけだ。能楽師の厳しさと、能楽師の至高がそこにあるような気がしてならない。狩野琇鵬師。人としても素晴らしい方だった。ご冥福を心より・・・お祈りしたい。
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