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丸尾焼窯元日記

熊本県天草市にある丸尾焼という窯元の窯元日記です。陶芸に興味のある方はチェックすると面白いかも・

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「身一つ」という思想

 能楽で古くからいわれている言葉がある。「身一つ」という言葉だ。能楽は哲学に近いと私は考えているので、能楽の先達たちが口伝として残してきた言葉や、風姿花伝のように書かれたものを読んだりするが、その中でも身一つという言葉にとても強く惹かれる。能楽はとても格式の高い舞楽だ。決められた大きさの舞台に4本柱。そこで演じられる幽玄であり華麗な舞は、神々しくさえあるが、能楽の凄さは必ずしも格式のみを重んずるわけではないことだ。仕手、脇、連れ等・・・演者は別けられるが、彼らは常に演者ではなく、時には謡を担当したりする。謡は全体を構成する調べとなり、重要な要素ではあるが主役ではない。昨日、仕手を演じた人が、次の時は謡にまわることが普通だ。舞台も時には格式から離れた場所で開かれることもある。例えば古には戦場で舞われたことも多く、臨機応変が尊ばれたりもする。

 臨機応変を行うためには、それに見合った技術のインプットがなされている必要がある。物心付いた時から謡を覚え、所作を身に着け。。。厳しい修練を積む。小さい時には、あまりいじらずに思いのままにさせておく。時分の花・・・それぞれの年代には、時々の花があるという意味だ。小さい時にあまりいじりすぎると怖気が出てしまい、うまく成長しない。基礎は教えながらも伸び伸びと演じさせよということだろう。700年といわれる能楽の歴史上には、今でも語り継がれる演者が存在する。そのような厚い歴史に対して常に意識を保ちながら、能楽師として生きていくわけだから、我々が想像すらできない厳しい世界があるに違いない。日本にはそのような深い価値観の上に成立している世界が、明確に残っている。

 能楽師が立っている世界を支えているものが「身一つ」という考え方だ。舞台の上では身一つ。それ故にすべてのことに対して準備しなければならない。準備する主体は身一つ。つまりその人なのだ。舞台の上では身一つ。ならば・・・それ以外の場所でも身一つだろう。この考え方が能楽が長い時間継続してきた、一番の理由だと私は感じている。能楽は格式の高いものだと書いた。しかし、能楽は様式にとらわれ過ぎない。その根本にあるのが。。。身一つという覚悟ではないのか。能楽は武士階級に大事にされた。庶民の舞楽とは切り離されて考えられていた。その一番の理由は、能楽の身一つという思想ゆえだったのではないかと私は感じている。舞台に立っただけで、その人のすべてがわかる・・・能楽とはそういうものだと私は思っている。

 能楽は最終的には個の問題に帰結するのではないか。日本は集団というイメージが強いが、物事を切り開く本質は個なのだと思う。個が際立たなければ集の力を統合することはできない。江戸期の武士たちが考えた理想は、やはり個の力を高めるということだったと思う。その本質は何かと問われると、私は「身一つ」だと思う。その導は能楽にあったのではないか。民主主義の世の中。みんなで考えることが大切にされるが、今の時代に最も重要なことは個の強靭さではないか。その系譜の始まりに能楽は位置すると私は考えている。舞台に立てば身一つ。人と接する時も身一つ。生きるに際しても身一つ。今の日本に必要なことはこんな考え方ではないかと感じている。
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