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丸尾焼窯元日記

熊本県天草市にある丸尾焼という窯元の窯元日記です。陶芸に興味のある方はチェックすると面白いかも・

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修業と研修 近代と現代。。。

 私は熊本県の伝統工芸後継者育成事業という研修制度を利用して、3年間の陶磁器技術研修を行った。研修期間も轆轤を中心とした技術研修が2年間。それから、石膏型の技術研修が1年間。合計3年間。したがって今私の前にいる人達と同じような技術研修を受け、陶芸家への道を踏み出したことになる。私は20歳の年にこの道を歩くことを決めたので、今から39年前のことだ。私は3年間の研修の後・・・京都に修業に行きたいと考えていて、実際受け入れてくれるところを探していたが、工房の職人さんが高齢となり、仕事を辞めたいとの事だったので、京都の修行は諦めて、天草において4代続いている・・・丸尾焼の代表として仕事を始めることになった。熊本での研修は無給だったので、完全に親の援助を受けて研修を進めたことになる。語感の鋭い人は今私が研修という言葉と、修行という言葉を使い分けていることに気がついていると思うが、私にとって研修の定義とは明治以降の工業化社会における技術習得のスタイルで、修行とは明治以前の技術習得のスタイルのことを指す。我々の陶芸という職業は明治のはるか以前に始まった仕事なので、本来は修行と呼ぶべきものだが、明治以降の職業教育においては、それ以前の生産形態について徒弟制度・工芸と呼び、それ以降の生産形態を研修制度・工業と呼ぶことになった。当時の日本は富国強兵政策。西洋列強に負けない国家を作ろうとした。

 一例を挙げると、西洋の近代文明を早急に取り入れようとした政府は『鉄は国家なり』ということで、教育制度をつくり上げる。近代化に向けた最初の学校を『徒弟学校』とした。徒弟学校。すなわち徒弟制度をそのまま教育しようと考えたのだ。しかし、徒弟学校をいくら作っても、近代化は出来ないという結論にたどり着く。明治政府は再度西洋に視察に行き、今度は『職工学校』を作ることにした。ところが、このスタイルで教育を進めても近代化は達成できないと、彼らは感じたようで、再度西洋に出掛けて西洋のスタイルを探ることにした。発見したのが『インダストリアル』という概念。産業・工業とこの言葉を訳した。近代化に至る方法として産業化・工業化ということを国是としたのだった。工業学校を各地に作り、中堅技術者を育てた。トップが蔵前にあった東京工業学校・・・今の東京工業大学だ。陶磁器産業はすでに日本に存在した軽工業。これを輸出産業に育てるべく産業政策が展開された。この経緯について一つ指摘しておきたいのは、明治を作ったのが薩長土肥を中心とした人たちだったこと、薩摩と肥前は陶芸の産地でもあった。更に指摘しておきたいことは、日本人は英語が苦手と言われるが、日本人は非常に高度な教育も母国語で行うことが出来る稀有な国だ。海外の言葉を日本語化して、概念をわかりやすくした。英語。工業。野球。などなど・・・日本人が英語が不得意な理由はこの辺りにあると私は考えている。

 それでは、我々が修めようとしている陶芸なるものは、工業と工芸・・・本来、どちらに属するものだろうか。我々の仕事は当然の事ながら、古い歴史を持ち工芸に属する行為だ。一つの例として天草における徒弟制度について話をしてみたい。まず徒弟制度の本質とは20歳までに職人としての技術を教えこむことにある。天草では職人を志す子供は、12歳から15歳で窯元の門を叩いた。最初は『子取り』と言い、彼らの小遣いは職人が支払っていた。大体、2、3名の職人に一人の子取りが付き、粘土を捏ねたり、作られた作品を棚に移動したりする。窯詰めの準備や土作りなどを行っていた。つまり子取りの段階で、工房の生産性を向上させるためには、どのように動かなければならないのかを徹底的に教えこまれた。3人の職人の生産がどうなっているか、次に土を求めるのは、どの職人さんなのか。作品の乾き具合は・・・削りはどの順番でと・・・職人さんは考えているか。有能な職人であればあるほど、根底にあるのは生産量を増やすための合理的な思考なので、子取りを務めていくことによって、生産に対する合理的な思考が自然と身についたのだ。この期間が概ね一年。みんなが帰ったあとに轆轤の稽古。職人の修業に入った時にある程度の技術を求められたからだ。この間の修行量を簡単に考えてみると、職人が使う土が一人あたり10本。一日30本の土を揉み、30棚の作品を場所を考えながら移動する。土は足で荒練を行い、菊練りで仕上げる。そのくり返しを一年間継続する。これが子取りという仕事だった。

 それから職人としての修行が3年。この期間に徹底的に轆轤の技術を教えこむ。数を作るためには手をいかに抜くかということに辿り着く。二手間かかっていた手数を、一つにすれば生産量が飛躍的に伸びるからだ。手抜きという言葉は今ではあまり良い意味で使われなくなったが、良い職人は手を抜きながら、一手間で二手間の仕事をする。今の人達も手間を抜くことをより研究したら、生産量が上がり、作品の質も高くなると私は考えている。3年間の修業を終えるとお礼奉公が1年間。これが基本的な修業の形態だった。12歳で入った人は17歳でほぼ一人前になる。15で入った人も二十歳の頃にはほぼ一人前の職人となった。工房は経営者である旦さんがいて、窯焚きさんが居る。実質的にはこの窯焚きさんが工房の差配をしており、その下に頭がいる。このやり方を古いという人もいるだろうが、京都の機屋などでは2000台の機で織物を作っていた。それを全国に販売するために一次問屋、二次問屋、三次問屋があり、流通が出来上がっていた。日本があっという間に西洋列強に追いついた理由はこの辺りにあるのだと、私は考えている。つまりどのような生産方法を取ったとしても、現場に生産量を増大させる仕組みがなければならない。近代も現代も生産手法は違うが・・・職場内の合理的な思考だろう。その仕組が日本の中に存在したということこそが、日本が明治維新に急速に近代化した理由だと思う。そしてそれはその前の時代に確立されていたということだろう。工藝者として我々はこのことにもっと焦点を当てていいのではないかと考えている。
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