丸尾焼窯元日記

熊本県天草市にある丸尾焼という窯元の窯元日記です。陶芸に興味のある方はチェックすると面白いかも・

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修業とは・・・

 職人の技術は生産性を増大するための徹底した指導だと書いた。生産現場である以上、生産性の向上は工房の利益に直結する。工房で働く職人たちは、修業のはじまりから徹底して生産性の向上。単位時間あたりの生産量の向上のための技術を叩き込まれる。工房を支配している意識は合理主義だ。どのように時間を使い、生産性を上げるかという課題は、現代のみのテーマではない。製造における合理性とは、単に作品を早く作るということだけでもない。時に高度な技術を駆使し、高いレベルの作品を作ることもあるが、その場合も根底には合理的な思考が存在している。つまり、本質的な職人は生産性を高めるという気概に支配された、合理的な思考をする人達だということも出来る。よく・・・職人は気難しい人が多く、他の人達からは理解されにくいという人がいるが、それは職人に対する間違った解釈だ。彼らは修業の初期の段階である子取りの時代から、生産性の向上という課題と向き合いながら、工房内の秩序に沿って仕事を覚えていく。動線であったり、工房内の仕事の進捗状況の観察であったり、先輩職人の仕事の状況確認をしながら、どう動けば一番効率的なのかを覚えていく。工房の生産性の向上のための思考や行動基準こそが、職人の仕事そのものだと私は考えている。

 現代における職人という言葉をよく耳にする。現代における職人を言葉で表すとすれば『工芸的な手法での卓越した生産技術を保持し、機械よりも高い精度で求められた作品を生産することの出来る人』ということだろう。こういう人たちは何も江戸時代にのみ存在していたわけではない。現代の最先端の工場にも必ずそういう人は存在する。このことをどう捉えればいいのだろうか。私はその根底には日本人の労働に関しての感性が存在していると考えている。古くは鎌倉武士の一所懸命。一つの定められた場所を命をかけて守る。という考え方だ。仏教用語では一隅を照らすという教えがある。これは人とは一隅を照らす事により仏道に至るという考え方で、精神世界の考え方の一つとなっている。私の住んでいる天草はかって『島原・天草の乱』というキリシタン一揆が起こった場所として知られている。乱の後・・・天草は天領となり、代官が赴任してきた。初代代官鈴木重成の兄鈴木正三は徳川の旗本から仏門に入った僧侶、その正三に村の娘が問うたと言われていることがある『身分の低い百姓でも仏性を得られるのか』という問いかけだ。この問いに対し『百姓は鍬を持ち一心不乱に耕すことにより、仏性に至る』と答えたという。鈴木正三は足助という合併で豊田市になった町の出身。トヨタのカンバン方式や改善という考え方の根底に、鈴木正三の仏教観があるような気がしてならない。

 仕事という言葉を辞書で引くと『しなければならないこと』とある。何のためにかと考えると、『生きていくために』だろう。簡単に断じると・・・仕事とは『生きていくためにしなければならないこと』ということになる。職人は実際のところ様々な分野に存在していた。焼物職人もいるし、大工なども職人だ。士農工商の時代では工を担う人々は概ね職人と呼ばれていた。職制が定まった職業においては、雇用も体系付けられていて、職域毎に育成プログラムが存在していた。子取りもそうであり、窯焚きさんもそうである。生産性の向上を常に求められたということは・・・逆から考えれば、注文も沢山有ったということにほかならない。つまりマニュファクチュアルなものが、現代の工業製品と同じだったということでもあるわけだ。だから、明治のはじめにインダストリアル。産業・工業という概念が輸入された時に、今まで自分たちが行ってきた生産方法は何なのか・・・という問いが起こり、工業に対する工芸という概念が生まれた。ここであらためて職人の定義を考えてみたい。『工芸における職人とは、需要が強い状況において、生産量を増大するための合理的手段を、常に改善する人達あるいは個人』という定義になるのではないか。現代でも一番修業効率がいいのは『売れっ子の個人作家のところに弟子入りすること』と言われている。

 仕事が沢山あって忙しく厳しいところに入るべきだ。。。これは陶芸だけの真理だろうか。私はそうではないと思う。これは仕事を身につけようとする人達に対する共通の真理ではないか。工芸的なことにも言えるし、工業的なことにも言えることだ。皆さんが今まで居た世界は65点でOKが出た世界。落第しなかったかもしれない。でも、工芸という世界では65点は落第する点数だ。修業の世界で65点でしのげるのか?修業とは生業を修めると書く。生業とは一生を通す仕事のこと。このことが案外見逃されている。これは江戸時代も明治時代も、平成の現代も同じことだろう。『修業とは・・・自らが行う生産行為に、喜びを見つけ、合理的に最大限の生産を行うため、基礎的な技術を身につけること』ではないかと、私は考えている。もちろんその先には現代性であるとか、感性の領域のことが散々入ってくるわけだが・・・・
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