丸尾焼窯元日記

熊本県天草市にある丸尾焼という窯元の窯元日記です。陶芸に興味のある方はチェックすると面白いかも・

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何処から来て、今何処にいて、今から何処に行こうとしているのか。

 修業の概念について書いた。この国の職人の意識や考え方は、近代化にとって重要な要素としての機能を果たしたとも書いた。日本における工人の職業観は明治維新のはるか以前に確立した。生産工程上の合理性こそが現代とも言えるが、その系譜は工人たる職人の世界観に端を発していると思う。工業的な生産手段がもてはやされているが、原初をたどれば職人的な生産改革に至る。日本には明治維新以前に確立した職業観があり、集団で物を作る工程が存在していた。家内制手工業がすでに成熟していたのだ。明治維新。日本は西洋的な近代化を国の目標と定めた。更に、今までの生産手段である、家内制手工業を半ば否定するような政策をとった。端的に言えば、スクラップアンドビルト。古い生産工程を破壊して、近代的な生産工程を導入したのだ。脱亜欧入・・・近代化が至上命題だった。近代化が遅れると列強による植民地支配が起こるかもしれない。それは恐怖に近い思いでもあった。結果として、古いものを打ち壊し、新しい近代的な生産手段が奨励される。

 重工業は国家が、軽工業は民間が担うことになる。結果として日本は目覚ましい成果を上げ、非常に短期間に列強に伍する国家を作り上げた。もっとも近代工業に属さないところでは、職人の世界は工業化と共存する形で、残っていった。小規模の建築業。料理人。理髪師。今の時代でいえば伝統的工芸品の従事者等など・・・手職と言われる職業の人達は、工業的というよりもむしろ工芸的な方法で、職業の継続を行ってきた。当初それらは伝習所と呼ばれることが多かった。大工の伝習所。焼き物の伝習所・・・意味は読んで字の如く『つたえならうところ』恐らくこういった施設が、工業学校の対極にある職人的な技術を『つたえならうところ』だろう。最初に私は熊本県伝統工芸後継者育成事業という制度で研修を始めたと話した。この施設も基本的には伝習所というべき存在で、石川県のこの施設も理念とする方向は同じではないかと想像している。明治以降に明治以前に成立した職業を教育する場所が、公共的に作られた背景には、家内制手工業的な生産形態が衰退していったという背景がある。それ以前は窯元毎に徒弟制度的ないわば工房内教育が行われていたが、明治以降は工業的手法で生産を行う製陶工場が増えてきて、徒弟制度というよりも工業的手法での生産が、一般的になったということだろう。

 以来百数十年。日本の陶磁器産業は工業的にいえば世界のトップクラスにまで成長している。もっとも、明治期以前の陶磁器が世界的に見てレベルが低かったかといえばそうではなく、日本の陶磁器は世界的に見てもとても高いところにあった。これは、陶芸という仕事が文化・文明という視点で見て、高いレベルのところにしか育たないということを物語っている。現在の日本には京セラに代表されるファイン系セラミックス。伊奈・東陶をはじめとする衛生陶器。碍子の技術やタイルの技術も世界トップクラスだ。瀬戸地方の陶磁器。ここも工業的製造に関して世界でも有数の産地である。対して、手仕事と称される我々の仕事はどうだろう。これも先ほど指摘したとおり、徳川時代の中頃には磁器の生産が盛んとなっていたし、それ以前・・・安土桃山時代には様々な焼き物が焼かれ始めていた。この文化の先鞭者は織田信長であり、信長が様々な文化的なものに付加価値を打ち立てたことによって、日本の焼き物は諸外国と比べても、異彩を放つほどの文化的資源となった。織田信長に千利休。豊臣秀吉・・・彼らの存在は室町時代より続く国風文化のいわば到達点であり、我々の今は・・・その延長線にあると言っても過言ではないと私は考えている。

 戦国時代の終焉を受けて、諸大名は泰平の世を実感する。争いの終焉は平安の始まりでもあるからだ。彼らは御庭焼と称する窯を作り、自ら好みの焼き物を作ることがブームとなる。現代まで継続している窯も少なくはないが、明治期に殿様の手を離れた結果として、安定的に作品を供給しているところは非常に少ない。熊本の御庭焼といえば高田焼。この窯元は朝鮮より連れてこられた上野そんかい(キゾウ)が開祖だが、明治のはじめに一旦途絶えている。ちにみに、現在・・・15代16代と続いている窯元は殆ど、秀吉が朝鮮出兵の時に連れてこられた陶工の末裔である場合が多い。この後・・・日本の鎖国体制が確立し、農業生産量が増大する。石川は・・・というより加賀藩は100万石。恐らく実質は持っと沢山の米が取れていたはずだ。米穀主義の最盛期は江戸時代初期。その後、田沼意次が出て行った政策が殖産興業だ。私が住んでいる天草に最も近い陶芸産地は佐賀県。ここには唐津焼もあるし有田焼も存在する。分類すると産地の本質が見えてくる。唐津焼は陶器。有田焼は磁器。唐津焼は民間の窯。有田焼は官製の窯。唐津焼は一楽二萩三唐津と言われるように茶陶と言われる焼物。有田焼は肥前藩が作った殖産興業の窯。高級ブランドが鍋島・・・ 前者は茶陶系・・・つまり織田信長利休のライン。後者は殖産興業系の藩窯。言い換えれば唐津焼は朝鮮系と言われるが、茶陶に代表される国風文化の象徴であり、有田焼は現代の陶器産業の一つの始点といえる。現代でも茶陶は個人であり、磁器は集団・会社というイメージがあるが、それは、有田焼が藩立であり徹底した分業化を行ったということでもある。徹底した分業化により生産効率を上げる。この業態の熟成こそが明治維新の富国強兵。産業育成の礎だったということが出来るのだ。
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