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丸尾焼窯元日記

熊本県天草市にある丸尾焼という窯元の窯元日記です。陶芸に興味のある方はチェックすると面白いかも・

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職業観。歴史観。未来感。つまりは大局観

 日本には備前焼や信楽焼など・・・いわゆる6古窯を呼ばれる窯場も存在する。それ以外にも様々な要素や形態の窯場があり、とりどりの窯が存在している。この土地・・・石川にも陶芸の歴史が濃ゆく存在しているし、私が住む天草にも天草陶石があり、陶芸という視点で見て面白い場所がある。時間的な制約があるので個々の窯場の話をすることは出来ないが、明治維新後の陶芸のおおまかな流れを話してみたい。ここでは工業的な焼き物の話は除外する。明治維新後、御庭焼と言われた焼き物が相次いで廃業した。それまでは扶持米をもらい、窯経営の基礎としていたわけだから、藩の庇護が無くなり、継続が困難になったことが主因だ。それ以外にも手工芸的な手法で作品を作っていた窯元は苦境に襲われる。機械生産の焼き物が沢山出てきたからだ。産業革命の本質は『良質なものを安価にあまねく』という方向に進むのが原則だ。白くて薄く丈夫な焼き物が工業的手法で量産された。もちろん産業革命は全国に瞬時に広がったわけではない。したがって当初は緩やかな広がりだったが、それでも産業革命は確実に広がっていった。次にコンクリート製品やビニール製品。それから水道の普及により、瓶や土管など・・・荒物と言われる焼き物を作っていた窯が一瞬で衰退する。瓦なども以前はその土地の土を使い風土に合ったものを作ることが、一般的だったが、コンクリート瓦などの普及と瓦工場の大規模化で、地方における瓦の製造工場は衰退していった。

 このような状況を幾ばくか救ったのは民芸運動だった。柳宗悦が提唱したこの運動は民衆が作り上げた集団美を再発見したもので、工業的なものではない、工芸的なものについての見直しの機運が高まってゆく。もちろん、それ以前にも東京藝術大学に工芸部門が作られたり、今の日展・・帝展にも工芸部門が作られたりと、伝統的な工芸を見直す動きはも確かに存在した・・・・柳の提唱した民芸とは『無知なる工人が一心不乱に轆轤を回し続けることにより、日常美すなわち用美が生まれる』大まかにいえばこのような考え方で、世界中から民芸品(民衆の芸術)を集めて展示したりした。そういった流れが起こった後・・・伝統的な手法で作られた作品を美術工芸に高める企てとして、伝統工芸展などが起こった、これは個人の作品に、より強く光を当てる試みで、以降。。。作家と呼ばれる人たちがたくさん出てくる。民芸でいえば濱田庄司。富本憲吉。河井寛次郎など・・・志野には荒川豊蔵や加藤唐九郎。九谷でいえば徳田八十吉のような、巨匠と言われるような人達を排出した。京都では八木一夫などが走泥社を設立し、前衛的な陶芸を発表し、それ以外にもキラ星のように作家が誕生した。伝産法が施行されたのは昭和49年。当初は大規模産地のみの指定だったが、現在は天草のような小規模な産地も指定を受けている。何故、小規模産地も指定を受けることが出来るようになったのか・・・理由は簡単な話で、伝統的工芸産業の従事者が減っているから。つまり、日本の伝統的工芸品産業は、驚くほどの速度で従事者が減り続けているということになる。伝統工芸の危機的状況ということがよく言われるようになったが、伝統工芸自体これからどうなってゆくのだろう。

 ここで私のことを少し話してみたい。私の工房は丸尾焼という。創業は弘化2年・・・といっても、当初は瓶を作る焼物屋として始まった。比較的大きな農家だったため、小作人の作間稼ぎとして製陶を始めたらしい。周辺にも瓶を作る工場が15軒ほどあり・・・多くは瓶納屋と呼ばれいた・・・我が家も親戚間では瓶納屋と呼ばれている。初代と2代は経営者というより、本職は地主だから。。自分で焼き物は作らなかった。3代は有田工業に学び。それから東京工業大学経由で、商工省に入り地方商工技師として全国を回る。山形や沖縄。栃木県の益子では初代の指導所長として赴任していたそうだ。父と叔父はともに医学部に進んだが、叔父は朝鮮にあった大学に進んだため、大学2年の時に終戦を迎え、祖父の焼き物屋になれという言葉を受けて陶芸を始めた。結局、土仕事には馴染めず身体障害者の施設を作り、実作はほとんどしなかった。5代目の私で初めて実際に焼き物を作る側に・・・現在、私は熊本県の伝統工芸協会長や天草大陶磁器展実行委員会の実行委員長を務めている。もうじき60になるので隠居したいと思っているが、3人の子供が全員陶芸をやっているので、もうしばらくは現役を続けるしかない状況だ。私の修行時代は作家の人達がキラキラしていたので、私の周囲の人達は、私が作家の道を選ぶものだと思っていたようだ。日常に使う生活陶器を作りたいと思い、叔父から跡を引き継いだ。そう考えた最大の理由は、工芸は個人で行うものではなく、集団で行うべきものだと考えたからだ。特定のお金持ちではなく、生きることにささやかもしれないが、何がしかの思いを持っている人たちが、使いたいと思うような作品群を集団で作りたいと思ったからだ。そのことは間違いだったと思わないが、一つ見込み違いが有ったとすれば、現代の弟子はほぼ10年で独立するケースが圧倒的なこと。左うちわになることを望んできたが、みんなが独立するので息子達だよりとなっている。最近、息子たちさえも独立したいと言い出してきて・・・本当に困っている。

 かなり端折って話をしてきたが、私は学者ではないのでご容赦願いたい。1時間半という時間の中で39年前の私自身に伝えたい事を考えた時に、工芸という仕事の現在における特殊性と歴史というよりも・・・陶芸の流れについては、どうしても伝えておきたいと思い至ったのだ。我々は何処から来て、今何処にいて、今から何処に行こうとしているのか。このことを考える上で絶対に必要なことがある。それは・・・職業観と歴史観だと私は考えている。これに未来観を加えれば、無敵になるだろう。今から私の未来観を話してみたいと思う。私は1年ほど前までは、これからの世界はグローバル化するだろうと決めつけていた。結果としてウイナーズ・テイク・オールの世界になるだろうと考えていた。しかし今の世界情勢を見るにつけ、恐らくこれからの世界はグローバル化とローカル化が同時進行する、世の中になるのだろうと考えるようになった。そう考えると辻褄が合ってくるからだ。ヨーロッパやアメリカの混乱。中国やアジアの混迷。日本においても中央である東京と地方との格差。つい最近まで私はグローバル資本主義が一方的に勝利するだろうと考えていた。日本ていえば一極集中が勝利するだろうと考えていた。しかし今の世界情勢という大きな流れを見るにつけ、これから先はグローバル一本では世界は立ちゆかなくなるだろうと、私は感じている。とすれば・・・我々の得意とする分野が求められる時代がやってくるのではないか。という結論になる。
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